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『エモい』だなんて言ってたまるか。
商店街の分岐に位置する割烹屋が店を畳んでいた。
今まで何度も店の前を通り、
大将の顔もなんとなく分かる程度の店だった。
おそらく長い歴史が築かれたであろう風情を残しつつも
『PayPay利用可能』と時代に柔軟な対応を見せており、
その柔軟さと伝統の味が故に令和まで生き残るのだと、
僕は昔から勝手にそう思っていた。
しかし、思い返してみるとその店で人が賑わっている様子を今まで目にしたこともなく、実際僕が立ち寄った経験もなかった。
薄く濁ったガラス窓から観ていたのはいつも大将がカウンター席に腰掛けてテレビを観ている小さな背中だった。
実は僕が知らない時間に混んでいたかもしれないし、
商売は繁盛していたのかもしれない。
今となっては僕は僕の記憶の中でしかその店を辿ることは出来なくなっていたのだ。
『ああ、こんなことならば一度訪れてみたかった』と
後悔に似た残念な気持ちが胸に滲んで広がった。
今日はその店の前に一人の青年がいた。
どこからそれを持ってきたのか分からない折り畳みではない木製の椅子に腰掛けて、なかなかの大きさのキャンバスに風景画を描いていた。
少しだけ見えたが、どうやらあの店の絵らしかった。
彼が店の関係者なのか、はたまた偶然この場所に惚れ込んで描きに来たのかは分からない。
けれど一瞬みえた彼の描いているその絵は
鮮やかで温かく、活き活きとしていた。
言い方は失礼だが、彼なりの店の供養のように思えた。
絵を描いている青年の背中が、あの日テレビを観ていた大将の小さな背中と重なって少し泣きそうになる。
青年は何年後か先の未来で『昔ここはこんなお店があってね』なんて子供に見せたりするのだろうか。
ただの傍観者でしかなかった僕がここまで心を動かされるとは思いもしなかった。
『エモい』なんて3文字ではとても表してはいけない。
※写真は割烹屋ではありません。