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カレンダーから覗く日常

たまにカレンダーを見返す。カレンダーと言っても壁掛けのカレンダーや机に置くタイプの物ではなく、Googleカレンダーだ。日記はあまり書かないタイプだし、InstagramやTwitterといったSNSに「日常」を書き込むこともない。だから、カレンダーを見て「この日はこんなことをしていたなぁ」と思い出しては懐かしむ。1年前の今頃は、小さなカフェを貸し切って友達の誕生日パーティーをやっていたようだ。20人以上が集まって、友達の誕生日を祝う。そんな光景は今の生活では考えられなくなった。理由は言うまでもなく、コロナだ。

カレンダーを見返していて、もうひとつ気づいたことがある。カレンダーにはいくつかのマイルールがあるのだが、その中の一つがスケジュールの後ろに「@場所」を書き込むこと。飲み会@渋谷といった具合だ。スケジュールを詰めつめにしがちな自分は、移動 to 渋谷というように「移動時間」もスケジュールに書き込む。カレンダーを見返してみると、この数ヶ月間で「@場所」も「移動時間」も消えていた。そんなカレンダーを見ながら、こんなところにもコロナの影響があったか、と思った。どこかに行くことも、集まることもままならなくなった。

Googleカレンダーの存在を知ったのは大学3年目の頃だ。最初は不慣れだったGoogleカレンダーも、時間の幅でスケジュールを書き込んだり、きっちり予定の1時間前にはリマインドしてくれたりする便利さに感動して以来、手帳は使わなくなった。なんといっても、「仕事」は優しい色のほうがいいから水色、「大学関連」はなんとなくグレー、「プライベート」は明るくて好きな色のオレンジ、「日々の習慣」は忘れないように赤といったようにカテゴリーごとに色分けできることが手帳がカラフルになる感覚と似ていて好きだった。始めはカラフルだったカレンダーもここ一年くらいは水色に染まって、オレンジや赤色はほとんど書き込まなくなっていたことに気づいた。元々なにかやっていないと落ち着かない性格もあってか、インターンやバイト、イベントや講座などの越境活動でスケジュールが埋まっていた。

そんな生活もコロナ禍で、空白が目立つようになった。ほとんど家にいることはなく、家は帰って寝るための場所だった自分は、この生活に戸惑いもあった。大学の授業はオンラインになり、校内に立ち入ることはできず、インターンではオフィスに集まって会議をすることもない。ちょっと渋谷で飲もうよ、なんてことも一切なくなった。なによりも、課題や読書をしたり、インターン先の仕事をしたり、何もないときでさえいつも行っていたカフェに行けなくなったのは辛かった。とはいえ、パソコンを覗き込む生活にも慣れてしまえば大丈夫でしょと楽観的な自分もいた。そんな思いとは裏腹に、時間が経てば経つほど、家での生活は僕の心をじわりじわり蝕んでいく感覚がした。当たり前にあった日常が徐々に奪われていくことは、自分が思っていた以上に、しんどかった。でもこのオンライン生活の中で、自分の心身の健康を保つために試行錯誤する日々の中で気づけたこともあった。

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家にいても特にすることはないので、散歩によく行くようになった。動くことが少なくなったので運動のためでもあったが、正直、健康意識というよりも娯楽に近い。時間だけはたっぷりとあるので少し遠くまで歩く。目的もなくフラフラと歩きながら、目に入ったものからあれこれ考える。普段から通っていたはずの道でも新しい発見がある。そんな時間が先の見えない漠然とした不安から落ち着きを取り戻す時間になった。花いっぱいの庭があるおうち。水やりをしている姿を思い浮かべるとお花が好きで、玄関いっぱいに花を育てている実家の祖母を思い出す。祖母のように週末には欠かさずにガーデニングをしているんだろうな、と思った。庭先にはご自由にお持ちくださいと芽吹き始めた植物の鉢が置かれていた。既にいくつか持って帰られたような跡があったのでどんな人が持って帰ったんだろうと気になる。植物が好きな人、タダならば貰って帰ろうと思った人、お裾分けの気持ちに優しさを感じて育ててみたくなった人。逆に、お裾分けをした人も、なくなった植木鉢の跡を見て、どんな人が持っていったのだろうと想像を膨らませているかもしれない。直接、繋がることが難しい中で、こういった人との繋がり方があるのだと少し嬉しくなって帰り道に頂いて帰ろうと思ったが、目に映る色々なものに気を取られていたら、そんなことはすっかり忘れ、違う道で帰っていた。

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散歩中に見つけた誰かの落とし物のキウイフルーツ。

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地域密着リアル店舗型メルカリ。お皿一つ30円。

家の近くには、いつもいい香りを漂わせている自家焙煎の珈琲豆屋さんがある。散歩の度に、そのお店の前を通ると珈琲のいい香りがして、カフェに行きたいという気持ちが強くなる。この時は緊急事態宣言が解除された頃で、カフェに行くこともできた。でもまだ行くかどうかは迷いがあった。そこで、カフェに行けないのなら、おうちをカフェにしてしまおうとコーヒードリッパーを買いに行った。オシャレなコーヒードリッパーにテンションが上がる。ステンレスフィルターで紙のフィルターを使う必要がなく、豆本来の風味の香りの高いコーヒーを入れることができる(らしい)。早速、近くの自家焙煎の珈琲豆屋に豆を買いに行くと生憎の店休日。仕方なくコーヒーチェーンでモカを買う。感染症対策用の透明フィルター越しの店員さんの声はとても聞こえづらい。何度か聞き返して、やっと「豆は挽きますか?」と言っているのが分かった。家にコーヒーミルはないので「お願いします」と答えると、「何番にしますか?」と聞かれた。どうやら豆の挽き方にも種類があるらしい。豆を買うのは初めてだったので、分からぬままとりあえず「おすすめでお願いします」と答えていた。ドリッパーの種類やコーヒーの好みを聞かれた後、それじゃあ8番にしますと慣れた手つきで豆を挽きながら、挽き方によって味や香りが変わることを教えてくれた。挽いてもらった珈琲豆を家に持ち帰り、さっそく買ったばかりのドリッパーでコーヒーを淹れる。フィルターに粉を入れ、最初にお湯を少し注いで、30秒ほど蒸らす。この時点でコーヒーのいい香りが漂ってくる。少しずつお湯を注ぐとカラフェに少しずつコーヒーが滴っていく。初めて入れたコーヒーは粉の分量を間違えていたのか、紅茶のような色になった。それからは、色々な珈琲豆を買ってきては、ハンドドリップで淹れるようになった。コーヒーを淹れる10分程の時間も大切な回復の時間になっていった。

オンラインの世界から抜け出そうと足掻く中で、気づいたことがある。それは、コロナ前のほうがパソコンの中の世界に閉じ込められていたのではないか、ということだ。カレンダー通りにこなすことを目指し、スケジュール通りにいかなければ修正を繰り返す。カレンダーは、大学やインターン、バイトや越境活動で埋まり、目的や目標、意味などの実態のない「なにか」に追われていたのかもしれない。この数ヶ月、もちろん失われた日常もある。しかし、自分にとっての大切にしたいと思える「日常」にも気づくことができた。カレンダーに書き込まない「日常」にこそちょっとした発見が潜んでいるし、その発見にふと心軽くなることがある。上へ上へと成長を目指すような直線的な時間ではなく、循環的な、毎日続くような、たまに新しい発見がある、そんな「日常」に支えられていたのだ。これからもたまにカレンダーを見返すだろう。その時に、思い出す「日常」が楽しみになった。

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