誰かの犠牲の上に幸せがあると思っている恐ろしい解釈
2019年12/26日(木)にメンタルモデルのオンライン講座に参加してきました!!その講座では講師の由佐さんに質問する機会があったので、自分の中にある恐ろしい解釈を紐解いてもらいました。
みげるの思い込み
幸せになりそうと感じたときに思いっきりブレーキを踏む自分がいる。自分に許可をだせていない気がする。
最近感じていたことは「幸せになりそうと感じた時に思いっきりブレーキを踏む自分がいる。」でした。前回のnoteでも少し触れたのですが、FBや感謝の言葉が全く受け止められないんですよね(笑)
オンライン講座で由佐さんに2回質問をしていただいて、わかってきたことは「自分が幸せになることで何かよくないことが起きる。」という言葉でした。
良いことがあっても素直に喜べなくて、幸せになりそうだと「ダメダメ」ってブレーキかけている。言葉では幸せになりたいとか自分を大切にしたいって言っているけど行動では全くできないんですよね。自分に許可を出せない感覚に近いです。
この思い込みをさらに深掘りしてもらって出てきたのは
自分の幸せ=誰かの犠牲の上に成り立っている。
という方程式でした。
もう衝撃的でした(笑)これに気がついた瞬間心拍数が上がってずっとドキドキしていました。
この思い込みはどこから形成されたのか?
ずばり家庭環境でした。自分の家庭は母子家庭なんですけど、ぱっと出てきたことは母親の犠牲の元に自分の幸せは成り立っている。でした。
小さいころから母親にはたくさん苦労をかけていて、たくさん我慢させているのではないかとずっと思っていて、
自分の幸せは母親の我慢や犠牲があるから成り立っている。
自分の幸せは誰かの犠牲があるから成り立っているんだ。犠牲なくして幸せは手に入らないと思っている。
だからこそ、「ああ嬉しいな。感謝されているな。幸せだな」って感じる度に「でも、これは誰かの犠牲の上に成り立っている。」
この言葉が頭から離れない
自分は幸せになりたいと思っているけど、誰かを犠牲にしてまで幸せにはなりたいとは思っていない。自分は誰かを犠牲にしてまで幸せになっていい人ではないと思ってる。
だから恐くて思いっきりブレーキを踏んでしまうだなって。
由佐さんからの言葉
「本当にそうなのかな?誰かの犠牲の元に幸せって本当に成り立っているのかな?お母さんはみげるくんを育てるのが幸せと感じていて、で本当に犠牲を払ったのかな?」
「幸せは誰の犠牲もないから幸せなんだよね。」
もうずっと泣きそうでした(笑)そうなんですよ、幸せは誰の犠牲もないから幸せなんだよなって。
誰も何も犠牲になっていないよねって。いいんだなって。自分に許可をだしても、受け取れる幸せやギフトは受け取っていいんだなって。ちゃんと受け取る勇気を持とうって思いました。
これからしたいこと
今はどんな状態かというと、この感覚をゆっくり味わおうと思ってます。犠牲の上に成り立つ幸せなんて無いんですよ。それは思い込みですよって
事実と解釈をしっかりわけていこうと思っています。あとやりたいと思っているのは産まれてから今日まで何を受け取ってきたのかをしっかり見つめ直して今年を終えていきたいと思っています。
最後まで読んでくれた方ありがとうございました。良いお年をお迎えください。
おしまい。
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