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力に迷ったら、力うどんを訪ねよう
正義なき力は無能なり
力なき正義も無能なり
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極真空手の創設者であるゴッドハンドと呼ばれた故・大山倍達の言葉だ。
「人間は考える葦である」という言葉で知られる哲学者パスカルも同様のことを言っているが、とにかく説得力に頬を打たれるような強い格言である。
大山総裁は他にも、
キミたちはゴリラが空手を練習しているのを見た事があるか?
私はゴリラが空手を練習しているのを見た事がない。
だから人間の方が強い。
「総裁!サッパリ解らないであります押忍!!」と突っ込みたくなる迷言を放っていたりもするが、やはり空手界の伝説が力と正義の相関関係を説くと、その言葉は肚にズンと来る。
───ふと、思った。
私に、正義と力はあるのだろうか──と。
そもそも、正義とは何なのか。
それは、鵺のように掴みどころがなく、あるいは、観る角度や覗きかたによって色を変える玉虫のような存在ではないだろうか。
ひるがえって、私は自分の想う正義を信じて疑わないほどの胆力も度量もないし、日和見で正義の立ち位置をコロコロと変える卑怯なマネもしたくはない。
どうやら──私に正義はないようだ。
正義がないのならば、私に力はあるのだろうか。
毎場所かかさずに大相撲を観ては「ああッ脇が甘いからッ!」「ホラ腰が高いッ」などと、エラそうに画面に吠える私の腕力は驚くほど平凡なものだし、四十も半ばにさしかかって、体力だって絶賛下降中だ。
そもそも、力とは何だ?
──腕力?──経済力?──包容力?
──あるいは、それらを包括したもの?
「ちから」という量感に満ちた言葉だが、いざ姿を見ようとすると寝ざめの夢のように掴みどころがなかった。
正義を失い、そして、力に迷ったときには──
──力うどんを訪ね、力うどんを食べ、そして、力を教えてもらうに限る。
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早速、出汁から取っていく。
時間が許すときには思いっきり料理に時間をかけるのも良いものだ。時短ばかりをタイパだコスパだと呼ぶのはあまりにも寂しいじゃないか。
さて、鍋に水を張ってしばらく昆布を浸けておき、火にかけふつふつとしてきたら取り出す。煮込んでしまうと臭みが出るので気をつけたいところだ。
続いて、厚削り節を弱火で2〜30分ほど灰汁を取りながら煮出す。出汁をたっぷりと効かせたかけつゆには厚削り節が抜群だ。
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【調味料】
⚪︎砂糖 大さじ1
⚪︎濃口醤油 大さじ2
⚪︎薄口醤油 大さじ2
⚪︎みりん 大さじ1
⚪︎清酒 大さじ1/2
⚪︎塩 小さじ1〜2※味をみて加え調整する
濾して1500ml程度になった合わせ出汁に、上記の【調味料】を加えて10〜20分間弱火にかける。濃口と薄口醤油を混ぜる理由は、彩りと味の塩梅のためだ。ひと口にゾンビ言っても、ノロノロと歩く屍も血相を変えて走る屍もいるように、醤油の個性と使いかたも多岐にわたる。
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続いて、鶏もも肉と餅を七輪で焼いていく。炭火の遠赤外線効果や燻蒸効果で美味しくなるにはちがいないのだが、今回の炭火理由の八割がたは「雰囲気」のためだ。炭火で焼いた具材をうどんに乗せることを想像しただけで、なんというか──私は、興奮を禁じ得ない。
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本当は、力うどんのために餅を搗くべく杵と臼を用意したかったのだが、
「今後のために杵と臼を買ってもいいかな?」
と、私に言われ振り返った妻の「一切の感情を消し去った目」に肝を冷やして、餅つきは断念したのだった。
ともあれ、焼けた表皮を突き破ってメコモコと膨らむ餅を眺めていると、なんだか妙にあたたかな気持ちになるから不思議なものだ。しかし、このほんわかとした牧歌的な食べ物が時として牙を剥き、気道に籠城して年間数千人の死者を出すのだ。これは、ざっくり言ってインフルエンザの死亡者数に比肩する。私は、急にその香ばしい白肌が恐ろしく冷酷なものにみえて、焼けたそれを手にとって「ああ忌まわしいっ」などと吐き捨てて地面にべちっと叩きつけた。すると、潰れた餅肌からぎょろりと双眸があらわれて、ふふふ、と嗤った。
そんなことを考えている間に、こんがりと鶏と餅が焼けたようだ。
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そして、最後に燻製にした蒲鉾を切っていく。
「ほのかな香り付け」のつもりで燻製器に入れた蒲鉾だったが、ムラムラと燻製家の血が騒ぎ、強く、そして深く燻してしまった。縁起の良い紅色が茶色になってしまい、蒲鉾も憤懣やるかたない様子だったが、
──いいか....子が親を選べぬように、
──蒲鉾も買い手を選べぬのだ。
などと詭弁を弄して説き伏せることに成功したのだった。
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そして、力うどんは完成した。
立ちのぼる湯気でさえも雄々しくみえるのは力のなせる業だろうか。
まず、汁をあおってうどんを啜る。噛まずに食道へ流し込み、餅を喰んで、ふたたび汁をあおって口を満たす。
鶏──うどん──小松菜──うどん──汁──蒲鉾──うどん──餅──。
──ひと息つく。
なんという....うまさなんだ....。
濃厚なかつおの出汁に、炭火の鶏、蒲鉾のスモーキーさが相まって、じつに妙なる味わいだ。餅もさることながら、焦げた表皮の香ばしさもたまらない。
丼底の、最後の一滴まで平らげ、しばし放心する。
それにしても──
──餅は、「力もち」
──昆布は、「よろこぶ」
──鰹節は、「勝つ男武士」
──蒲鉾は、「日の出」
──鶏は、「運をとり込む」
──小松菜と鶏は、「名取り」
と、力うどんという名に違わず、力にまつわる験担ぎで構成された食事だ。ひるがえれば、食べる縁起物、と言ってもいいほどである。
新年早々にして、力強い縁起物たちに心と胃袋を絆された私は、力強く立ち上がり、力強くうどんを茹で、力強く汁を注ぎ、力強く餅をのせ、そして、力強く二杯目の力うどんを、力いっぱい平らげたのだった。
翌朝──
心なしか、全身に力が漲った感覚がある。鏡にうつした我が身に、御しきれない生命力が、陽炎がごとくあふれて見えるようだ。
そして、私は──意気揚々と体重計に乗った。
デジタルの数字がデン、と力強く表示され、その想像をはるかに超えた力強い体重に、私は──力なく崩れ落ちるのだった。