🍥ソーキそば🍥
───来年も、この冬空を見られるだろうか。
かぎりなく澄んだ蒼穹を眺めながら、自分でも驚くほど細くなった腕を伸ばし、妻の手を握った。
──そんな弱気なこと言っちゃだめよ。
妻は言ったが、その声はどこか諦念を含んでいて、やけに穏やかだ。
死への感慨よりも、彼女をひとりにすることのほうが、よっぽど気がかりだった。
私はおもいきり手に力を込めたが、つよく握ることは出来なかった。
ひとつ、息を吐く。白い。
嘘である。
来冬どころか、あと50年は下着だけで越冬できそうなほど、私はベキバキに元気だ。この元気をどうしてくれようかと澄んだ冬の空のうろこ雲を眺めていると、それはどこか──南国の海に燦く白波を想起させた。
南国を想起してしまったら、ソーキそばを食べずにはいられない。そして、こういう加齢臭ただよう駄洒落を恥じらいもなく書けるようになった羞恥心の雪解けに、快哉を叫ばずにはいられない。
それはさておこう。
先般、沖縄県の宮古島へ行く機会があって、「ソーキそば」の文字を見つけては暖簾をくぐったのだが、なかでも印象に残る店があった。
このババア婆さんは、横浜の海に親兄弟でも殺されたのだろうか、というほどに悪し様に地元の海を罵られ、モヤモヤしながら食べたソーキそばのまぁ美味いこと。
鰹と豚の風味が濃厚なのにスッキリとした味わいは、今回の宮古島ソーキそば巡りでダントツの味だった。
これは、今後の人生に必要な要素にちがいないと、私に「ソーキそば道」の第一歩を踏ませるには充分な一杯だった。
「ソーキそば道」などと言っておきながら、チマチマと修行を重ねるほど私は暇ではないし、すぐにゴールを求めようとするのが男の性であり、哀しい本質だ。だから私はろくすっぽ下調べもせずに半ば想像でソーキそばを作ることにした。
さて、ソーキそばを作る前にコーレーグースを仕込んでいこう。コーレーグースのない沖縄そばなんて、ストラトキャスターを構えていないジミ・ヘンドリックスのようなものだからだ。
コーレーグースとは、島唐辛子を泡盛で漬け込んだ調味料で、沖縄の食事処には必ずと言っていいほど置いてある。訪れた宮古島も例に漏れず、ペットボトルや瓶に唐辛子を泳がせた泡盛がテーブルには必ず鎮座していた。
刺身醤油や炒めものに垂らしたり、なかにはビールに加える剛の者もいるそうだが、やはりソーキそば──特に鰹出汁との相性は抜群で、ほんの少し垂らしただけでピリリと豊かな味わいが加わる。ただし、あまり調子に乗って使いすぎると酔ってしまうので注意が必要だ。
保存瓶に島で買った唐辛子、母が育てた鷹の爪を詰め、ハラペーニョを燻製し乾燥させたチポトレを隠し味に数本忍ばせ泡盛を注ぐ。余った分での晩酌も考えて、泡盛は好きな春雨カリーを使った。
1週間ほど寝かせ蓋を開けると、ぶわっ──と、「それっぽい」芳しさが鼻を撫でる。
──ん?
──「それっぽい」を説明しろだって?
なるほどなるほど──圧倒的によくわからない。
この300文字弱を超高密度に凝縮した「それっぽい」の実力を思い知ったか。へんっ。
それっぽい自慢ばかりしているとアレっぽくなってしまうので先に進もう。
豚バラ軟骨、あるいはパイカ、そして軟骨ソーキと呼ばれる部位だが、かつては破棄されていたような端材だ。そして、端材というのは、手間をかければ往々にして美味くなるものだ。もはや高級食材の牛すじ肉に較べて豚バラ軟骨は圧倒的な安さである。この日は100グラム88円だった。
過去の悪夢がひたひたと跫をたてて迫り来るように、ひたひたに水を注ぎ火にかける。
とめどない灰汁を掬いつつ、とめどなく沸騰してから5分ほどとめどなく茹でこぼす。
湯を捨て、ぬるま湯を流してソーキの灰汁を指でこそげ洗い、生姜、ネギ頭と鍋に入れて新しく水を張って火にかける。生姜は皮つきの薄切りで食品用ガーゼに包むと後がラクだ。
沸騰したら弱火にし、灰汁を取って黒糖、泡盛を加え蓋をする。30分ほど経ったらネギ、生姜を取り出し醤油を加えて蓋をして2時間ほど煮込んでいく。
圧力鍋で時短出来るが、私は煮込みながら酒を喫ったり燻製をするのが好きなので時間はどっぷりしっぽりとかけていく。
2時間も煮込めば軟骨もコリコリと食べやすくなるが、「骨を名乗るのを許さない」ほどゼリー状になるまで執拗に煮込んでいく。ここからは落とし蓋をして時おり味を見ながらコトコトと煮込んでいく。いわゆる、そばつゆの「かえし」として使いたいので、やや濃い目の状態が目標だ。
煮汁がほどよく詰まって、軟骨も琥珀色のゼリー状となったら火を止め冷ましてから冷蔵庫でひと晩寝かせる。
翌日、冷えて凝固した白い豚の油脂を適度に取り除く。ソーキそばの旨味にもなるので、取りすぎには気をつけたいところだ。
ちなみに、除いた油脂はチャーハンや炒めものに活用すると、べらぼうのボーボーに美味しくなるので棄てずに使うのがオススメのボーボーだ。
ソーキ煮を温めながら、鰹の荒節で濃い出汁をとっていく。
水1000mlを火にかけ、沸騰したら40〜50gの荒節を投入して弱火にし、灰汁を取りながら30分ほど、
──まだまだ隠し持ってンだろうがよ
──ポケットの中の旨味も全部出しちまえよ
などと絶え間なくハラスメントを浴びせ、荒節のみならず、その精神にも出汁の排出を促していく。
温めたソーキの煮汁を丼にとり、濾した出汁を注ぐ。
丼のなかの邂逅はすばらしい香りとなって台所を包んでたちまち私は溺れそうになったが、うっとりしている時間はない。熱々のうちに固茹での麺を沈める。
ほろほろのソーキを「ただいま」と言いながら乗せる。特に意味はないが、ソーキにとってはきっと大切なことだ。
ソーキは沖縄の大地。紅生姜はハイビスカス。そして、小葱はガジュマルを想わせる。
いや、実際はそんなことなんて露ほども想ってはいないのだが、何というか───そういうことにしておいてくれ。
さっそく、そばをゾババと啜り、薬味ごとソーキをとって食んでみる。
───おお...これはいい。
悪くない。悪くない、というよりは良い。良い、というよりは、すごく良い。
「なんだよお前ちゃんとソーキそばしてんじゃん」といった味にちゃんと帰結している。ソーキ煮のホロホロトロトロもたまらない。
コーレーグースを回しかけ、夢中となって麺を啜ってはソーキを齧って汁を飲む。
丼底の汁──最後のひと口を含み、目を瞑って宮古島を想う。
島にそよぐ風。
どこまでも続くサトウキビ畑。
境目のない海と空。
珊瑚の白い砂浜。
そして、潮騒──
───横浜の海は本ッ当に汚ったないねえ