🍥肉吸い🍥
吉本新喜劇の花紀京が、宿酔いのさなか、「肉うどんのうどん抜きで」などと注文したのが、肉吸いの発祥と言われている。
それにしても「肉うどんのうどん抜き」なんて、いかにも芸人らしい洒脱な逸話だ。
「うどんという主役を抜く」ことによって名物化した肉吸いは、星の数ほどある料理のなかでも稀有な存在と言えるだろう。
この記事を書くにあたって「肉吸い」と検索にかけ調べていると、
「肉吸い風うどん」
という、ルーツもへったくれも無視した「きみ、それは──ただの肉うどんではないのかね」と諭して差し上げたくなるものが存在した。
しかし、よくよく考えると、「肉吸い風うどん」という料理の存在は、1980年後半に誕生し大阪人に親しまれ、30年余りかけて全国に伝播していった肉吸いの変遷と、食文化として確固たる地位を確立した証左に他ならないのでは──そう思い至って、じんわりと胸が熱くなるのを感じた。
肉うどんの「うどん抜き」で発展した肉吸いが「肉吸い風うどん」として、いわば「逆輸入」された現象に、私は強い既視感を覚え、そして、すぐにその正体に辿り着いた。
伝説の柔道家である木村政彦の得意技「腕緘」が彼の没後に「キムラロック」として、世界の格闘技界で認知されるようになったことに似ているのだ。
大正6年に熊本で生まれ、10歳の頃から柔道を始めた木村政彦は、のちに牛島辰熊という「鬼の牛島」と呼ばれた柔道家に見出され、一日のうち食事や3〜4時間の睡眠時間以外を稽古に費やす、といった恐るべき練習量で、
木村の前に木村なく
木村の後にも木村なし
と称えられるほどの凄まじい強さを身につけていき、全日本選手権13年連続保持や、天覧試合優勝。15年間不敗という輝かしい実績を残したのちに、師の牛島が旗揚げしたプロ柔道へ参加する。
プロ柔道家となった木村は、サンパウロ新聞社の招待で1951年にブラジルに渡り、あのグレイシー柔術の創始者である若き日のエリオ・グレイシーとマラカナン・スタジアムで対戦した。
体格差もさることながら両者の実力差は明確で、最後は木村得意の「腕緘」で見事エリオを破った。
のちに、エリオが木村の強さに敬意を示して腕緘のことを、キムラロックと称して後進に伝えることになる。
1954年にプロレスに参加し、力道山との不穏試合もあって、やがて木村政彦は表舞台から消えていった。
1963年に柔道界に復帰した木村は拓殖大学柔道部顧問に就任し、1983年の勇退までに数々の後進を育て上げる。
1993年4月。木村政彦は大腸がんにて没する。享年は75歳だった。
奇しくも同年の11月に、現在まで続く総合格闘技の興行「UFC」の第一回トーナメント大会が開催され、木村政彦に敗れたあのエリオ・グレイシーの息子ホイス・グレイシーが同大会を制し、優勝を果たす。
初期のUFCは、競技というよりは金的攻撃すら認められた、いわゆる「ヴァーリトゥード」といった様相の大会だった。そういった剣呑な気配ただよう大会の、筋骨隆々の大男たちを次々と締め落として優勝をかっさらったホイス・グレイシーは、格闘技マニアだった中学生の私の記憶に強く刻まれた。
衝撃とともに現れたグレイシー柔術の90年代〜の格闘技界における影響は言うまでもない。
木村の腕緘が、南米ブラジルで「キムラロック」として伝えられ、そして彼の没後にグレイシー旋風とともに世界に伝播していったように、「肉うどんのうどん抜き」として難波で誕生した肉吸いが、いつの日か「肉吸い風うどん」として登場したことに、私は──感動を禁じ得ない。
無計画に肉吸いでエッセイを書こうとしたら木村政彦に帰着してしまった。私も予想だにしなかった展開だったが、男として生きていれば木村政彦を想って血が滾ことは往々にしてあるものだ。
本当は、木村政彦の生い立ちや逸話、あまりにも濃すぎる師匠・牛島辰熊のことも紹介したいのだが、さらに肉吸いから遠ざかることは必至だろう。
もっと木村をくれよ
といった奇特な方のために、自信を持ってオススメできる増田俊也氏の超々名作長編ノンフィクションがある。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」
いいか若者よ──
毒にも薬にもならぬ──そのぬるま湯から今すぐ飛びでて「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を──
ン読めッッ!!
ハァハァ...
さて、出汁を取っていこう。
本来は、厚削りの鰹節をしばらく煮て出汁を取るが、薄削りしかなかったために量を増やした。牛肉の出汁も加わるので、澄んだ出汁にこだわらずに鰹の雑味が出るくらいが、このテの料理では美味しいはずだ。
出汁を濾し、薄口醤油80〜90mlと砂糖小さじ2を加えて火にかける。
グラグラしない程度の火加減で肉を煮て、灰汁を丁寧にすくう。ひと通りすくい終えたら換気扇をとめ、「おだしの匂い」を台所に満たし、目を瞑ってそれを胸いっぱいに吸い込む。
──嗚呼....
思わず声が出るが、我ながらの気持ち悪さに、まだ中空を漂っている「嗚呼」を捕まえ、くしゃくしゃに丸めて燃えないゴミとして捨てた。
それはさておき、好みで豆腐や卵を落として肉吸いの完成だ。
丼によそって、揚げ玉少々と小ネギをどっさりと投入する。
名店「千とせ」に倣って、少なめのごはんに卵を落とす「小玉」も用意した。
まずは丼を傾け、熱々のおだしを啜る。
なんというか──
おだし うまい おれ のむ もっと
といった、語彙や論理性が消しとぶ味わいだ。
丼底に箸を入れ肉をすくう。小玉を「汁受け」にして汁を切り、麺のごとく肉を啜る。おだしの沁みたごはんと卵を突き崩し、ザバザバと掻っ込み、そして汁で流し込む。
お
か
わ
り
もう、直接、おつゆにご飯を入れ、揚げ玉と卵を割り入れざっとかき混ぜてレンチンし「おじや・極」となったそれに──私の理性は完全に消し飛んだのだった。
そして翌朝──
すこし煮詰まった濃いおだしにうどんを入れた、肉うどん──いや、肉吸い風うどんの湯気を顔に浴びながら、
もしかすると、私の孫の代には──肉吸いはさらに旅を重ね、時代の変遷とともに、
「肉吸い風うどん風肉うどん抜き肉吸い」
などと、メビウスの環のように輪廻する──哲学的な領域にまで至ってるのかもしれないな....
そんなことを夢想しながら、最後の一滴までメビウス汁を堪能したのだった。