浅野佑介の説明

こんにちは、noteを開いて頂け、ありがとうございます!
ここを開いて頂けたみなさんは、すこーーーしくらい僕に興味を持っていてくれていると思うので、僕の今までの生い立ちを簡単に書かせてもらいます。

生年月日:1981年10月25日

血液型:O型

出身地:愛知県名古屋市

兄弟構成:僕→長男 そして3人の妹。

1981年10月25日に僕は浅野家の長男として愛知県名古屋市に生まれました。

そして兄弟もその後妹3人に増え、
祖父母、両親、僕、妹3人の8人での生活でした。

家から徒歩5分の距離の場所に、車メーカーの部品やアルミホイールを作ったりする町工場を営んでいました。僕の父も長男で、待望の子供が男だったので、おじいちゃんは大そう喜んだと聞いていたます。

そして僕は物心ついたときから、おじいちゃんから「お前はこの会社の4代目だぞ」と言われ、僕もそのつもりでした。と言うより、それ以外の選択肢すら考えていなかったと思います。

"ゴール地点"が決まったと勘違いしていた僕は、そこから目的意識のない中学生、高校生、大学生となっていってしまいました。そもそもそれが僕の性格だったのかもしれませんが…

習い事もやりたいといえば、やれせてくれました。
・柔道
・空手
・エレクトーン
・習字
・水泳
・夏期講習
・学習塾
・資格対策塾
・英会話(これだけは続いた)
が、どれも笑ってしまうほど長続きしなかったのです。柔道や空手も黒帯まで届かないで辞めているし、夏期講習や塾 などは行ったふりして、サボったことすらありました。

両親はこんなに無駄な月謝を払わせてた僕に、よく愛想つかさなかったなと思います。あるいは次こそは我が息子なら!とささやかながらの期待を抱いていたのかもしれません。
そして僕自身も次こそは続けるぞ!とも思っていましたが、そうはいかなかったです…

そんな風にしてのうのうと大学生となり、愛知県にある中部大学に通い始めました。特に大学で何かを学びたいとか、そういうものがあった訳ではなく、同級生も大学行くし、卒業後は早かれ遅かれ実家を継ぐのだろうと思い行く学部は経営情報学部へと推薦入試で入学したのでした。

大学に入学して最初の2ケ月ほどは大学ではほぼ誰とも口を聞かなかったように思います。目的意識もこの大学に思い入れもなしで入学した結果、トマトソースを塗り忘れたマルガリータピザのように何かが決定的に物足りなく、そしてモノクロの時間のようでした。

が、さすがに一人は辛くなってくる。

孤独に負けた僕は、ある授業の時に近くに座っていたノリオくんとガマくんに意を決して「友達になってくれない?」と話しかけたのでした。

思いの外、孤独は辛く、それを4年続けることが僕にはできないと言う判断でした。

そうやって友達を2人得たことで、大学生活が少しずつ色を帯びて行きました。

その当時の僕は大学に行く意味、学ぶ意味を全く見出せておらず、私学大学なので1コマ3000円近く払っているのに、それをサボり時給900円のバイトに行くという始末。

そんな僕に大きな転機がやってきます。

2001年9月11日
アメリカ同時多発テロです。
ニューヨークのツインタワーに飛行機が突っ込む映像がとてもセンセーショナルに報道されていました。 

その日を境にじわじわと事情が変わって行きました。

2002年成人式直前に家業が倒産。

中学生の頃、同級生の女子に僕がチョコレートをもらったことが友達に知れ渡ると、増田くんから「玉の輿狙いだな」と言われ、子供心ながら切なさを覚えたことはありますが、気づけば今日まで、お金で苦労したことはありませんでした。今までとても恵まれていたことにその日まで気づきませんでした。

それがこの日を界に、家族8人で工場でとっている幕内弁当二つを家族8人で分けて食べる生活に突入しました。おじいちゃんも好きだった日本酒とスルメイカでの晩酌はなくなり、そして家に取り立てがくるといけないから、しばらくは家に帰っちゃダメと言われ、どの位の期間だったか忘れてしまったけれど、と言うよりこの時期の記憶がとても曖昧なのですが、しばし一家離散。

ここから僕の人生が始まりました。

そんな僕はいま37歳で、大学生時代に何も情熱が捧げれなかったことを取り戻すかのように、いまを必死にもがいています。

こんな僕の人生から、学生時代なにもしてこなかった浅野でも、Fラン大学の浅野でも、コネなし、経験なしの浅野でも挑戦できているのだから、僕/私のほうがもっと可能性ある!

と思って頂け、なにかを挑戦するきっかけとなってくれたら嬉しいです。

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