浅野佑介 @ カンボジア

2010年脱サラし、カンボジアへ大学院留学。2012年よりSuiJoh(テーラーメイドブランド)を立上げ、プノンペン3店舗、シェムリアップ3店舗→コロナでプノンペン2店舗(2022)。カンボジアのナショナルブランド目指し、プノンペンでカンボジア人と共にモノづくりしています。

浅野佑介 @ カンボジア

2010年脱サラし、カンボジアへ大学院留学。2012年よりSuiJoh(テーラーメイドブランド)を立上げ、プノンペン3店舗、シェムリアップ3店舗→コロナでプノンペン2店舗(2022)。カンボジアのナショナルブランド目指し、プノンペンでカンボジア人と共にモノづくりしています。

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浅野佑介の説明

こんにちは、noteを開いて頂け、ありがとうございます! ここを開いて頂けたみなさんは、すこーーーしくらい僕に興味を持っていてくれていると思うので、僕の今までの生い立ちを簡単に書かせてもらいます。 生年月日:1981年10月25日 血液型:O型 出身地:愛知県名古屋市 兄弟構成:僕→長男 そして3人の妹。 1981年10月25日に僕は浅野家の長男として愛知県名古屋市に生まれました。 そして兄弟もその後妹3人に増え、 祖父母、両親、僕、妹3人の8人での生活でした。

    • ナニを創るのか

      学校を作る。 図書館を作る。 井戸を掘る。 それがゴールの支援をたくさん見て来た。 時には関わって来た。 一つわかったことは、そのゴールは現地の人にとってはスタートであり、希望の灯火だった。(かもしれない) その後、移譲がうまくいかず、メンテナンスがうまくいかず、調査がうまくいかず、結果、マラソンのように長く続くはずだった道へのスタートは、予想外に短い50m走のようにゴールを迎えたりもする。 (人生とはそんな予想外な出来事はよく起こったりもする) そんな”僕ら”の”ゴ

      • 2015-08-29

        スースダイ、アサノです。 アメブロからの記事をピックアップして、noteに転載してます。 今回は2015年8月29日のブログ記事転載。 この事件で思ったことは、日本では良く”命は平等”と見聞きするけれど、世界では命の尊さは同じだとしても、命の価値は全然平等ではないってことです。 この時、今みたいにFacebook Liveが当たり前かしていたら、もっと違う結果になっていたのだろうか。 結果、僕らは警察から”脅し”ととれるような発言を受け、被害届を取り下げたことを思い出

        • 隈研吾先生がお越しいただけたお話し。

          スースダイ、浅野です。 SuiJohが大海原に航海にでて、早いもので10年。 遡ること2004~2010年、僕は日本で会社員をしていました。 海外で挑戦しようと決めてから、自分の部屋のいつも目に付く場所に「覚悟を持って」と下手な字で達筆風に書いて貼り、自分の頭に覚悟を埋め込もうとしていたのだけれど、果たしてその覚悟を持ち成し遂げれているのかは謎です。 コツコツ、コツコツとスタート地点にたどり着けるように。 その当時、この挑戦にはお金が必要と思い、とにかく自分でお金を貯め

        • 固定された記事

          再出航の日

          2022年8月15日 終戦日であり、平和と新たな冒険への希望、挑戦のような象徴的な日でもあるこの日。 ありったけの平和と笑顔の連鎖への願いを詰め込んで、新しい航海へ。 SuiJoh路地裏本店工房を再オープンいたしました。 7月下旬からの店舗改装を経て、路地裏本店工房は一歩前へ。 SuiJohの名前とロゴに使われてもいる水の上を漂う船。 10年間の航海を得てSuiJohの次のステップに向けての旅立ちがコンセプトです。 ーーリノベーションコンセプトーー~~あなたの日常に彩

          2022年前半備忘録。「さよなら。」

          多くの感情が詰まった半年 気がつけば2022年も半分が終わり、そしてもう8月。 この2022年の前半は喜怒哀楽の深みが強く、時に光の届かない深海に閉じ込められたような想いもしたし、それらの感情は”人”由来の感情でした。 そしてそれを救ってくれたのもまた”人”でした。 この”人”と言う漢字は、本当に良くできているな、とすら思うほど、人に尽きる日々でした。 多くの感情が時間によって風化されてしまう前に振り返っていきます。 希望を感じた元旦 2021年の始まりは最高の

          2022年前半備忘録。「さよなら。」

          海外で生きるということ

          スースダイ、浅野です。 僕は事あるごとに「人生とは何かを計画しているときに起こってしまう別の出来事」という言葉を思い出します。 この言葉は学生時代(もう約20年前!!)に出会った言葉です。 写真家でありエッセイストの故・星野道夫さんの「イニュニック」にでてくる一節です。 アラスカの初夏の大平原を優しふ吹き抜ける風のような、そんな心地よく温もりを与えてくれる星野道夫さんの文章。大好きです。そんな才能の塊だった星野道夫さんも、上記の言葉の中で人生を終えたのかもしれません。

          海外で生きるということ

          28歳で退職しカンボジアの大学院へ留学。

          スースダイ、浅野です。 遡ること2010年。 28歳の時、僕はサラリーマンに終止符をうち、プノンペン市内の最初の私立大学 Norton大学 大学院(開発学部)へ入学しました。 (大学院の入学の仕方、費用等についてはリクエストあれば別途に書ければと思います) 僕自身の話になりますが、日本で働いてた際の業種は、雑誌の編集&ライターをした後、IT業界のシステム構築や運用をする会社で働いていました。また大学時代は経営情報学部でした。 つまり、開発学部系の学問を学んだわけでも

          28歳で退職しカンボジアの大学院へ留学。

          2002年 僕は初めてカンボジアに来た①

          スースダイ、浅野です。 2002年。 成人式直前に家業の倒産が決まりました。 その前後の記憶はあまりにも曖昧で、先の記事に書いたように家族8人で弁当2箱を分ける食事が今でも鮮明に脳裏に焼きついています。 この飽食の時代に、そんなひもじい思いをするとは。 これを境に、それまで僕を慕ってくれていた親戚のおじちゃんが会社を相手に訴えてきたりと、大人の汚さ、怖さを知ることにもなりました。 でもそのおかげで、裏切るよりは裏切られる側、騙すより騙される側でいたい、と思うようにな

          2002年 僕は初めてカンボジアに来た①