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秋のひな祭、それは一葉祭ぞかし

「ひなっちゃんにゾッコンなのですよ」

これはわたしが友人と交わした会話での発言で、この“ひなっちゃん”とは明治時代を生きたある小説家のことだ。それは前の五千円札の顔だった樋口一葉その人で、本名が夏子(戸籍名は奈津なつ)なので「なっちゃん」。親友だった伊東夏子と区別するため、それぞれ「ひなっちゃん」「いなっちゃん」と呼びあっていたという。

台東区立一葉記念館に展示されている旧五千円札

そういうわけで、冒頭の会話のとおりわたしはひなっちゃんすなわち樋口一葉の文章が大好きで、これはそのうちnoteにも書いておきたいと思っていた。

勤労感謝の日である11月23日は、そのひなっちゃんこと樋口一葉の命日。彼女は1896年(明治29)の11月23日に24歳と6カ月で早逝した。

台東区立一葉記念館ではこの日は一葉祭と呼ばれている。毎年一葉祭には展示室が無料公開され、朗読会や講演会などの催しがある。この日は祝日だから参加しやすいはずなのだけど、わたしはどういうわけかこれまで一葉祭の日に訪れたことはなかった。一葉記念館には定期的に赴いているにもかかわらず。昨年は予定は空けていたのに、運悪く豪雨になり断念したんだった。

今年の勤労感謝の日は土曜日。週末に重なった。ちょうど正午から浅草の産業貿易センター台東館で石フリマというミネラルショーのような催しがあって、そこでのアポがあったので外出を予定していた。一葉記念館の最寄駅は東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅で、駅からは南へ歩いて10分ほどの距離。浅草からも遠くはない。天候は良い。これ幸いにと午前中に一葉記念館に赴き、それから歩いて浅草に向かうことにした。

一葉記念館では10月から特別展「樋口一葉の〈奇跡の十四か月〉」が開催されている。以下のリンクは公式サイト。

 樋口一葉は、明治27年12月に「大つごもり」を発表して以降、29年1月までの短い期間に「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」「たけくらべ」など、後世に読み継がれる名作を矢継ぎ早に世に出し、後に作家で一葉研究家の和田芳惠は、この時期を〈奇跡の十四か月〉と評しました。
 本展では、一葉の人脈や文壇での評価など「奇跡」を現出させた背景とともに、この充実期に書かれた作品をあらためて紹介します。

台東区立一葉記念館の公式サイトより

 特別展ではとくに貴重な資料が公開される。今回の白眉は直筆の未定稿。代表作『たけくらべ』と『にごりえ』の執筆にあたって、一葉が推敲に試行錯誤した様子が生々しく残る原稿だった。

特別展のチラシより、展示物の一部。左下がその未定稿。

この未定稿や手紙、歌塾「萩の舎」時代の和歌など、一葉の直筆はこれまで何度も展示されてきた(その名も「一葉の直筆」という特別展もあった)。直筆は墨の濃淡や字のくずし方に勢いや強弱がある。流麗な達筆の端々には、墨を継いだタイミングや一呼吸置いた箇所が残っていて、一葉の言葉に対する姿勢やその時の感情まで知ることができそうな気がする。

撮影可能だった時に撮影した一葉の手紙

“奇跡の十四か月”は、公式サイトの文言にあるように、いくつかの代表作が驚異的なペースで執筆された期間。

当時の一葉は成り行きで樋口家の戸主となったものの、借金漬けでまったく余裕のない状況だった。今と違って女性の就労はほとんど皆無。生活に窮していた一葉は稼ぐために執筆することを決意した。決意だけでは書き続けることはむつかしい。つまりこの時期、次々に執筆依頼があったということだ。

一葉自身は女性の職業作家という物珍しさで注目されているにすぎないととらえていたようだけれど、珍奇さだけでは執筆依頼は続かない。確実に作品自体が評価されていたのだ。

明治の女性の哀しみをリアルに描くことは男性作家には不可能であり、それにくわえて彼女には天性の文才と和歌の基礎があった。『たけくらべ』が鴎外や露伴に絶賛され、売れっ子作家への見通しがつき始めていた。しかしそんなタイミングでの肺結核。結局24歳の若さで逝ってしまう。彼女の無念さはいかばかりか。

一葉の文章は、わたしはおそらく高校生ぐらいの時に国語の授業か試験問題で読んでいるはずなのだけど、よく憶えていない。自主的に一葉作品を読んだのは大人になってからで、記憶にある最初に読んだ作品は『にごりえ』だった。テンポよく描き出される遊郭の雰囲気と、ストーリー終盤の緊張感と急展開に虜になった。

一葉の短編小説には優れた現代語訳が多数あるけれども、もともとの雅文体(擬古文)でなければ、一葉ならではの勢いというかグルーヴ感はわからない。以下、“奇跡の十四か月”の間に書かれた各作品の冒頭部分を岩波文庫より抜粋してみる。一文が長いので『ゆく雲』以外は文の途中までで省略した。なお、2文字分のスペースをとる縦書きの繰り返し記号は横書きのnoteではタイプできないので仮名に置き換えてある。他の漢字と仮名遣いとルビは岩波文庫のまま。慣れないと読みづらいとは思うけれど、しばしお付き合いを。

井戸は車にて綱の長さ十二ひろ、勝手は北向きにてはすの空のから風ひゆうひゆうとふきぬきの寒さ、おゝえがたとかまどの前に火なぶりの一ぷんは一にのびて、割木ほどの事も大台にして叱りとばさるゝ婢女はしたの身つらや、はじめ受宿うけやど老媼おばさまが言葉には御子様がたは男女なんによ六人、なれども常住家内うちにおいであそばすは御総領と末お二人、少し新造しんぞ は機嫌かいなれど、目色め いろ顔色かほいろを呑みこんで仕舞しまへば大した事もなく、……

『大つごもり』より

酒折さかをりみや山梨やまなしをか塩山えんざん裂石さけいし、さしの名も都人こゝびとの耳に聞きなれぬは、小仏こぼとけさゝの難処を越して猿橋さるはしのながれにめくるめき、鶴瀬つるせ 駒飼こまかひ見るほどの里もなきに、勝沼かつぬまの町とても東京こゝにて場末ば すゑぞかし、甲府かうふ 流石さすが大厦高楼たいか かうろう躑躅つゝじさき城址しろあとなど見る処のありとは言えど、汽車の便りよき頃にならば知らず、ことさらの馬車腕車くるまに一昼夜をゆられて、いざ恵林寺ゑ りんじ の桜見にといふ人はあるまじ、故郷ふるさとなればこそ年々としとしの夏休みにも、人は箱根はこね 伊香保いかほともよふし立つるなかを、我れのみ一人ひとりあしびきの山の甲斐かひに峯のしら雲あとを消すことりとは是非ぜひもなけれど、今歳こ としこのたびみやこを離れて八王子はちわうじ に足をむける事これまでに覚えなきらさなり。

『ゆく雲』より

おい木村さんしんさん寄つておいでよ、お寄りといつたら寄つてもいではないか、又素通りで二葉やへく気だらう、押かけてつて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにおぶうなら帰りに吃度きつとよつてお呉れよ、うそきだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染な じみらしきつツかけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら後刻のちに後刻にと行過るあとを、一寸ちよつと舌打しながら見送つてのちにも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つてしきいをまたぎながら一人言をいへば、たかちやん大分だいぶ 御述懐ご じつかいだね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭やけぼつくいと何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないでまじないでもして待つが宜いさと慰さめるやうな朋輩ほうばい口振くちぶりりきちやんと違つてわたしには技倆うでが無いからね、一人でも逃しては残念さ、……

『にごりえ』より

いつも威勢い せいよき黒ぬり車の、それかどおとが止まつた娘ではないかと両親ふたおや出迎で むかはれつる物を、今宵こ よひは辻よりとびのりの車さへ帰して悄然しよんぼり格子戸かうし ど そとに立てば、家内うちには父親が相かはらずの高声たかごゑ、いはゞわし福人ふくじん一人ひとり、いづれも柔順おとなしい子供を持つて育てるに手はかゝらず人にはめられる、分外ぶんぐわいよくさへかわかねば此上に望みもなし、やれやれ有難い事と物がたられる、あの相手はさだめし母様はゝさん、あゝ何も御存じなしにのやうに喜んでおいであそばす物を、の顔さげて離縁状りえんじやうもらふて下されと言はれた物か、かられるは必定ひつちやう、太郎と言ふ子もある身にて置いてけ出して来るまでには種々いろいろ思案し あんもしつくしてののちなれど、……

『十三夜』より

お京さん居ますかと窓の戸の外に来て、ことことと羽目をたゝく音のするに、誰れだえ、もう仕舞しまつたから明日来てお呉れと嘘を言へば、たつていやね、起きて明けてお呉んなさい、傘屋の吉だよ、れだよと少し高く言へば、いやな子だね此様こんな遅くに何を言ひに来たか、又おかちんのおねだりか、と笑つて、今あけるよ少時しばらく辛防しんぼうおしと言ひながら、仕立かけの縫物に針どめして立つは年頃二十はたち余りの意気な女、多い髪の毛をいそがしい折からとて結び髪にして、少し長めな八ぢやうの前だれ、お召のだいなしな半天はんてんを着て、急ぎ足に沓脱くつぬぎへ下りて格子戸に添ひし雨戸を明くれば、お気の毒さまと言ひながらずつと這入るは一すん法師ほし仇名あだな のある町内の暴れ者、傘屋の吉とて持て余しの小僧なり、年は十六なれど不図ふと見る処は一か二か、肩幅せばく顔小さく、目鼻だちはきりきりと利口らしけれどいかにもせいひくければ人あざけりて仇名はつけゝる、御免なさい、と火鉢の傍へづかづかと行けば、おかちんを焼くには火が足らないよ、台所の火消壺から消し炭を持つてきてお前が勝手に焼いてお喰べ、私は今夜中に此れ一枚ひとつげねばならぬ、……

『わかれ道』より

廻れば大門おおもんの見返り柳いと長けれど、おぐろどぶ燈火ともしびうつる三がいの騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前だいおんじ まえと名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人のもうしき、三嶋み しま神社さまの角をまがりてよりれぞと見ゆる大厦いえもなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ処とてなかばさしたる雨戸の外に、あやしきなりに紙を切りなして、胡粉ご ふんぬりくり彩色さいしきのある田楽みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手当ことごとしく、一家内か ないこれにかゝりてれはなにぞと問ふに、知らずや霜月とり例の神社に欲深様のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫れは誠の商売人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着はるぎの支度もこれをば当てぞかし、……

『たけくらべ』より

この調子である。文体こそやや古めかしいけれど、とくに話し言葉のテンポはまさに江戸っ子のそれで、東京落語の噺家さんの話芸を彷彿させるものがある。もったりした関西弁ネイティブのわたしには憧れのテンポでもあり、ある種の麻薬的中毒性を覚える。

一葉の作品はもとより、彼女をこれらの作品の執筆に導いた境遇についてはいくら書いても書ききれない。

概要は一葉記念館の常設展示で知ることができるが、例えば『私語り 樋口一葉』(西川祐子著、岩波書店)や『樋口一葉赤貧日記』(伊藤氏貴著、中央公論新社)といった書籍がとてもおすすめだ(リンクはAmazonアフィリエイト)。

一葉祭に話を戻すと、記念館の入り口前にテントがならび、甘酒が振る舞われていた。別のテントにはパイプ椅子が並べられ、午後の朗読会と講演会の準備中だった。わたしは正午には浅草に行かねばならなかったから、その後の様子はわからない。にぎわっていたら嬉しいな。

一葉記念館には協賛会があって、甘酒を用意していたのはその協賛会だった。せっかく一葉祭に来たのでわたしも甘酒をいただいた。甘酒を口にしたのはいったい何年ぶりだろうか、悪くないなと思った。

振る舞われていた甘酒。結局この甘酒がこの日のランチ代わりに。

この甘酒、その名とはうらはらにノンアルコール。実際はコメと米麹を原料にした栄養満点の発酵飲料だろう。この場合の酒はかならずしもアルコールを意味しないのかもしれない。

甘酒は俳句では夏の季語。ちょっと調べてみると、江戸時代には甘酒は夏の風物詩だったとある。もともとは夏に作られていた。けだし栄養ドリンクだろう。夏の発酵飲料としては、モンゴルの馬乳酒を思い出す。材料が違うだけで、位置付けは似ているな。

ひな祭りにも甘酒が飲まれるけれど、あれはもともと白酒という文字通りのアルコール飲料だったそうだ(中国の白酒パイチュウとは別)。白酒はコメが原料なので日本酒の亜種か。いつからかアルコール度数やコストの面で甘酒で代用されるようになったらしい。

一葉記念館の特別展を観たあと、甘酒をすすりながらどうして一葉祭に甘酒なのかをぼんやりと考えた。温かい甘酒は夏よりも晩秋から冬のほうが相性が良いような気がする。

思い出せないけれども、一葉作品のどれかに甘酒が出てきただろうか。

甘酒はの季語だから、一葉の本名の子(あるいは奈津﹅﹅)の掛詞?いや、わたしは甘酒にはひな祭りのイメージがあったから、ひな﹅﹅祭り……もしや一葉のニックネーム「ひな﹅﹅っちゃん」に掛けてられていたりして。

いやたぶん、お祭りだからというだけで特段の意味なんて見出そうというのが間違っているのかもしれない。わたしはこうした無意味な深読みをよくやってしまう。

甘酒といえばひな祭り、一葉祭だからひなっちゃん祭、略してこれもひな祭りだ。

経済的困窮が結果的に女性作家の先鞭をつけることになった一葉。困窮のなか若くして病死した一葉。一葉祭の日は偶然にも勤労感謝の日の祝日だけど、秋のひな祭りとして知られても良いんじゃないかな。秋、暦の上ではもう冬だけど、春の桃の節句からほぼ半年後にあたるこの時期にも女性の健康を願うイベントがあっても良さそうだ。

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