何が芸術作品となるのか

あるものが芸術作品と呼ばれるためにはどのような要素が必要でしょうか。

例えば、すでに名声を確立された人物が手掛けたものであれば、芸術作品であるとみなすことは当然と思われるかもしれません。モーツァルトやモネなどの名前とともに知られるものは芸術作品として扱われるでしょう、文学や建築もしばしば芸術の一つと考えられます。

その一方で、現在では芸術作品と考えられているものであっても、当初はそのもように見なされなかったという例も珍しくありません。

マルセル・デュシャンの『泉』はそのような事例の典型ですし、アンディ・ウォーホルやバンクシーなども、その作品を芸術と呼ぶことに抵抗感を覚える人は少なくないかも知れません。

このような、ある事物がいかにして芸術作品と見なされ、区分されるのか否かという点については、すでに私の論ずるところでもあります[1]。

ここでわれわれが注意すべきは、ある対象が芸術作品であると考えられるために必要な要素の一つに、様々な解釈を許すかということが挙げられます。

すなわち、絵画であれ音楽であれ、あるいは他の分野のものであれ、ある一つの事象の持つ意味が一意に決定されるのではなく、理解する者や評価する者の違いによって異なる理解や評価が生じうる可能性を持つということが重要となります。

換言すれば、一つの方法でしか理解することができないものやある特定の理解のみを許容するような態度は、芸術作品とは対極に位置するということになります。

特に演劇や歌劇など、一つの台本に基づいて上演される表現芸術と総称される分野については、しばしば台本の内容を忠実に再現することが正しいのであって、それ以外の方法は好ましくないと思われがちです。

しかし、書かれたものは演じられなければ人々の目の前に立ち現れない以上、演じる際に行う者の違いによって理解の内容に違いや差が生じることは避けがたいものです。

さらに、取り上げる側の問題意識によって対象となる作品に描かれた内容をさらに追及し、作者が訴えかけようとした事柄そのものを表現するために内容を読み替えたり、対象の含む問題意識をより明確にするために内容を縮約することもあり得ます。

もちろん、こうした手法については好悪の判断の対象となることでしょうし、書かれたものは書かれたとおりに再現されるべきであると考えることにも一理あります。

しかし、このような取り組みが正しいことか否かの判断にかけられ、ある一つのあり方のみが正しく、それ以外は全て間違っているとされるならどうなるでしょうか。

われわれが新たに何かを行う必要はなくなり、唯一の正しいあり方のみが継承されてゆくことになります。

このとき、そうした手法によって継承される対象は、どれほど著名な人物が手掛けているとしても、もはや芸術作品の範疇には含まれず、あたかもいかなる解釈も許さない化学式と同じものになるのです。

その意味において、われわれは多様な理解と解釈の重要さに自覚的であることが求められるのです。

[1]鈴村裕輔, 芸術作品の範疇の変転について. 哲学年始, 第34号, 55-70頁, 2002年.

<Executive Summary>
What Is an Important Viewpoint to Understand the Category of Art Works? (Yusuke Suzumura)

If we want to recognise something as an art work, what is an important viewpoint? Based on such a question, we overview the category of art works.

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