【追悼文】小澤征爾さんについて思い出すいくつかのこと

去る2月6日(火)、指揮者の小澤征爾さんが逝去しました。享年88歳でした。

1959年に第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位を獲得して以来、岩城宏之さんとともに世界の楽壇において日本やアジア出身の指揮者の存在感を高めることに大きく貢献し、世界的な指揮者として名声を博したことは周知の通りです。

また、1961年から1962年にかけての「N響事件」や1972年に始まる「日フィル争議」を受けた新日本フィルハーモニー交響楽団の結成など、日本の音楽界において特筆すべき出来事の当事者であったり深く関わったことも広く知られるところです。

私にとって小澤さんというと録音よりも実演での印象が強い指揮者でした。

例えば、2002年7月2日にサントリーホールで鑑賞した第18回〈東京の夏〉音楽祭2002年「音楽と文学」のオープニングコンサートで新日フィルを指揮したベルリオーズの幻想交響曲と『レリオ、または生への回帰』や、2003年2月20日の新日本フィルの第351定期演奏会でのベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番や交響曲第3番『英雄』は、いずれも場内の空気の流れが目に見えるような演奏で、その中心に小澤さんがいたものでした。

一方、録音といえば1966年にトロント交響楽団と録音したベルリオーズの幻想交響曲は、何かになろうとする何者でもない青年の苦悩と葛藤を直接的に表現した印象深い音源でありその後多くの録音を様々な楽団と手掛けた中でも特に興趣の尽きない一枚となっています。

ところで、小澤さんということで思い出されることのひとつは、青山フィルハーモニー管弦楽団の夏季合宿がホテルジャパン志賀で行われていた頃、アンサンブルホールに掲げられた著名な音楽家の顔写真の中の一人であったことです。

カラヤン、バーンスタイン、ジュリーニ、シノーポリといった世界に冠たる指揮者を撮影したドイツ・グラモフォンの写真を用いたパネルに納まる小澤さんの様子を初めて眺めたのは1992年8月のことであり、その感興は、今でも忘れ難いものです。

奇しくも日本が戦後の復興を成し遂げて世界第2位の経済大国となった1950年代末から1960年代は小澤さんが活躍の場を日本から世界へと広げる時期でもあり、ある意味で小澤さんの歩みは伸び行く日本の姿を音楽の分野で表現するものでもありました。

その意味でも、戦後の日本を代表する偉大な音楽家の一人であった小澤征爾さんのご冥福をお祈り申し上げます。

<Executive Summary>
Miscellaneous Memories of Dr Seiji Ozawa (Yusuke Suzumura)

Dr Seijo Ozawa, a Former Principal Conductor of the Vienna State Opera, had passed away at the age of 88 on 6th February 2024. On this occasion, I remember miscellaneous memories of Dr Ozawa.

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