自民党総裁選挙の問題点は何か--1956年の第2回総裁選の事例から

自民党の総裁選挙の歴史の中でも屈指の激しさとなったのは、1956年12月14日(金)に行われた第2回目の選挙でした。

第1回目は当時の鳩山一郎総裁に対する事実上の信任投票であり、第2回目は日本の保守政党にとって初の総裁公選となりました。

臨時党大会の議長を務めた砂田重政は投票に先立ち、次のように述べました[1]。

きょうここで文字通りの総裁公選が行われる。わが憲政史上特記すべき事柄である。選挙にあたつては、もつとも厳粛かつ公正でありたい。また総裁が決定したあとは、あとに感情的シコリを残さぬようにしたい。

砂田が総裁選挙を表現するために「わが憲政史上特記すべき事柄」としたのは、それまで保守政党において党首の公選は行われておらず、候補者が揃ったうえで有権者が投票するという意味での本格的な選挙が行われたことに対する自民党関係者の自負心を示していました。

それとともに、「総裁が決定したあとは、あとに感情的シコリを残さないようにしたい」と指摘したことは、岸信介、石井光次郎、石橋湛山の間で争われた総裁選挙における選挙活動の激しさを踏まえたものでした。

すなわち、このときの有権者は有権者数は衆議院議員が299名、参議院議員が126名、各都道府県から選出された代議員は92名、総数は517名でした[2]。

このとき、各陣営は国会議員に対して金銭を供与したり組閣後の閣僚や党役員の座を約束することで投票を促したりしました。また、代議員には、例えば東北地方の関係者は上野駅で待ち受けて宿舎で囲い込んだり、西日本からの代議員については東海道線熱海駅で下車させて酒類を提供し、東京駅への到着時間を指定して他の陣営との接触を断ったりしました[3]。

自民党の総裁選挙は公職選挙ではないため法令法規の規制はなく、政治資金規正法も現在とは異なります。そのため、こうした供応などは現在の感覚からすれば違法であったり不適切であったりするものの、当時では特段問題となるものではありませんでした。

ただし、第2回総裁選挙に当選した石橋湛山は、選挙活動を行った自陣営の人々が大臣への起用などを約束して国会議員の支持を取り付けたました。

その結果、大臣の座を約束した人たちの数が上回り、大臣に起用しても希望の担当ではなかったり、入閣を果たせない議員が相次ぎ、「ウソつき!」、「空手形に裏切られた!」といった反発を招いています[4]。

総裁選を戦い抜くための手段として入閣を約束したのは、石橋湛山陣営の方針でした。そして、その方針が党内における石橋湛山総裁の、内閣における石橋湛山首相の信任と支持を低下させることになったのでした。

もちろん今回の自民党総裁選挙は1956年12月の選挙とは異なります。

それでも、過去の事例に類する何らかの「ウソ」や「空手形」があるとすれば、こうした要素は新総裁にとって将来的な不安材料となることだけは間違いのないところです。

[1]湛山会編『名峰湛山』一二三書房、1957年、3頁。
[2]「自民党総裁公選はこう行われる」『朝日新聞』1956年12月12日朝刊1面。
[3]この点については、鈴村裕輔『政治家 石橋湛山』(中央公論新社、2023年)の第2章を参照せよ。
[4]石田博英『私の昭和政界史』東洋経済新報社、1986年、88頁。

<Executive Summary>
What Are Problems of the LDP Presidential Election 2024: Based on the Past Experiences (Yusuke Suzumura)

The Presidential Election of the Liberal Democratic Party will be held on 27th September 2024. On this occasion, we examine we examine the past problems to a lesson for the new LDP President.

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