没後120年目に際し清沢満之研究を概括しその将来を展望する

今日、真宗大谷派の僧侶で哲学者であった清沢満之が1903(明治35)年6月6日に39歳で没してから、120年目を迎えました。

清沢については、私も『清沢満之における宗教哲学と社会』(法政大学出版局、2022年)の中で哲学的な営みとその思想について詳細を検討しています。

ところで、清沢に関する研究は、その死の直後から本格的に開始され、1904(明治41)年に最初の一冊である、安藤州一の編纂になり、無我山房から刊行された『清沢先生信仰坐談』が刊行されています。

これ以後、昭和10年代までに、全集と文集がそれぞれ二種類ずつ出版されました。

この時期は、清沢についての批判的研究は乏しく、概して生前の業績の回顧と賞賛が主流でした。そして、清沢についての個別的研究が行われるようになるのは、昭和20年代以降のことでした。

そのような清沢研究の主題は、「宗教者としての清沢満之とその思想」と「哲学者としての清沢満之とその思想」に分けることができます。そして、取り扱われる分量としては前者が圧倒的に多いというのが、清沢の死後120年を経た後も変わらぬ傾向です。

「宗教者としての清沢とその思想」についての研究は、教団近代化と清沢の改革運動、清沢の信仰、精神主義の意味と精神主義運動の展開に焦点を当てるものがほとんどです。

こうした研究の最大の特色は、題名に「清沢先生」と関する論文の数の多さが傍証するように、清沢を客観的分析の対象として捉えるのではなく、宗教上の先覚者という見方を言外に前提したうえで論述を進める、という点にあります。

このような態度は、清沢を追体験的ないし内在的に研究することに一定の成果を生み出したということができます。

しかし、清沢を相対化し、研究の幅を広げることに成功したとはいいがたく、一種の賞賛的研究が主流であったことが、真宗大谷派の内部では親鸞と並び称されるまでの位置にありながら一般的な認知度が極端に低いという清沢像を作り上げたのでした。

このような「宗教者としての清沢」研究の優位を批判し、「哲学者としての清沢」の重要性を力説したのは、今村仁司でした。

2001(平成13)年に『現代語訳清沢満之語録』を刊行した今村は、「宗門内(真宗大谷派)ではウルトラ有名人、宗門外ではほとんど忘れられた思想家という清沢満之のイメージのずれは何とかして訂正されなければならない」[1] とし、清沢の哲学的著作に関する研究がどれほど重要であるかを説きます。

こうした新しい潮流の影響は、清沢の没後100年に合わせ、2002(平成14)年から翌年にかけて岩波書店から刊行された『清沢満之全集』の編集方針にも明瞭に現れています。

すなわち、岩波版全集では全巻の劈頭に哲学書である『宗教哲学骸骨』が配されたほか、哲学的著作を清沢の思想形成に従って排列することで、信仰の確立と宗教的著作の間の連続性を明確に打ち出されました。これは、「哲学者としての清沢」を視野に入れることなしに「宗教者としての清沢」について言及することは難しいことを示すものでした。

以上のように、現在も発展と成長を続ける清沢満之研究は、今後も一層活発なものとなることが期待されるところです。

[1]今村仁司, 現代語訳清沢満之語録. 岩波書店, 2001年, 490頁.

<Executive Summary>
The 120th Anniversary of the Death of Kiyozawa Manshi and the Future of Kiyozawa Manshi Studies (Yusuke Suzumura)

The 6th June, 2023 is the 120th anniversary of the death of Kiyozawa Manshi, a priest and philosopher. On this occasion, we examine the future of Kiyozawa Manshi Studies.

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