【評伝】渡邉恒雄氏--歴代の首相に影響を与え続けたジャーナリスト

本日、読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄さんが逝去しました。享年98歳でした。

学徒動員によって徴兵された際に、重営倉に送られることを覚悟のうえで枕の中にカントの『実践理性批判』の日本語訳を入れるほどであった哲学青年が戦後は共産主義に傾倒し、主体性論争を経て保守主義の政治記者となり、鳩山一郎、石橋湛山らの番記者として経験を重ねつつ、大野伴睦の絶大な信用を得る存在として政治報道の第一線で活躍するとともに、社内の主導権争いの中で浮沈を繰り返しつつ務台光雄の知遇を得ることで最後は中曽根康弘を筆頭とする歴代の首相とも密接な関係を築き上げたことは、日本の報道史上のみならず憲政史においても特筆すべき事柄です。

その閲歴には毀誉褒貶があろうものの、政治記者としての力量は群を抜くものであったことは、田中角栄とあたかも友人のような関係を築き、朝日新聞で絶大な権勢を誇っていたものの記事を書くことそのものが不得手であった三浦甲子二や、社会党から出馬して当選したものの民主自由党を経て自民党に鞍替えさせることに功績があり、池田勇人とは宏池会の結成時から密接な関係を持ち、政治記者としての活動よりは宏池会の幹部然とした動きの方が広く知られたNHKの島桂次など、同時代の政界と深くかかわった記者との対比を通してより鮮明となります。

実際、神田の古本屋にある政治関係の本はすべて買ったと豪語するほど研究熱心であり、それでも分からない問題については国立国会図書館で調べるといった姿勢は、読売新聞の記事だけでなく、雑誌などへの寄稿文などの形で世に送り出されました。

さらに、弘文堂から出版された『派閥』(1958年)、『大臣』(1959年)、『党首と政党』(1961年)のように取材や調査の結果を上梓したり、初の海外視察の際に訪れた米国で手にしたセオドア・ホワイトの"The Making of the President, 1960"を小野瀬嘉慈との共訳により『大統領になる方法』として出版したり、あるいはワシントン支局長時代の連載記事や取材をまとめて『ホワイトハウスの内幕』(読売新聞社、1971年)や『大統領と補佐官』(日新報道、1972年)として刊行したことは、日本の政治研究や外国政治への知見を深めるだけでなく、当時の最先端の研究という側面も持つものでした。

一方、政界との距離の近さがロッキード事件後に問題視され、いずれは政治部長と衆目の一致するところであったにもかかわらず海外駐在を経験することになったり、後に読売新聞社の社長として読売ジャイアンツのオーナーに就任すると、自球団中心の主張を繰り返して周囲の耳目を集めたり、2004年に起きた球界再編問題でも選手会との対立を深めるなど、新聞以外の分野では様々な話題を提供したことも事実です。

これは、読売新聞を関東地方のブロック紙から日本最大の新聞へと押し上げた正力松太郎や、正力を支え読売新聞の販売拡張に尽力した務台光雄に比べ、誇るべきものがなかった渡邉さんが、自らの存在感を誇示するために歴代の政権に深く関わったり、国民的な娯楽である野球でも独自の路線を標榜したことが一因でした。

ただ、Jリーグがチームの名称から企業名を取り除くことを決定した際に、読売新聞社がよみうりランド、日本テレビとともに「読売ヴェルディ」とも呼ばれていたヴェルディ川崎に出資していたため反対したものの、Jリーグ関係者や愛好家の支持を得られなかったことは、渡邉さんの発想が実情にそぐわないことを示すものでもありました。

特に企業名を排除する方針が撤回されなければヴェルディ川崎はJリーグを脱退すると発言したものの、国際サッカー連盟とFIFAワールドカップを頂点とし、各国の連盟やリーグがその下に位置づけられるサッカー界にあっては、企業の利益を追求すことで選手にとって最高の名誉であるFIFAワールドカップへの参加の道が閉ざされるような選択に同調者を集められるはずはなかったという点は、野球に関して十分な理解を持っていないと指摘された渡邉さんが、他の分野への理解にもかけることを示唆するものでした。

こうした経緯から、渡邉さんがプロ野球やサッカー界で芳しい評価を得ていないことも事実です。

それでも、記者として出発し、田中角栄から現在の石破茂首相に至るまで各首相に大きな影響力を持っていたことは、今後同様の例が見いだされることが難しいといっても過言ではありません。

また、『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社、2000年)の巻末に付された東京大学の学生時代のノートや所論からは、渡邉さんが豊かな知性と文学的な素養をよく備えた教養人であることを力強く示しています。

そして、「たとえ社長を退いても、生涯ジャーナリストでいたいから」と逝去するその時まで主筆の座にあったことは、渡邉さんが最も尊重していたものが何であったかを明瞭に伝えます。

一方で日本の報道史上でも屈指の政治記者であり、他方で社内政治を戦い抜いて新聞界の頂点に立ち、強権的とも高圧的ともされる存在であり、さらにスポーツ界でも様々な話題を提供するなど、渡邉恒雄さんは、他の追随を許さなかった、文字通り稀有な存在であったのです。

<Executive Summary>
Critical Biography: Mr Tsuneo Watanabe--A Journalist Who Was the Influential Person to the Japanese Prime Ministers (Yusuke Suzumura)

Mr Tsuneo Watanabe, the Chief Editor for the Yomiuri Shimbun, had passed away at the age of 98 on 19th December 2024. On this occasion, we examine Mr Watanabe's life.

いいなと思ったら応援しよう!