「東京オリンピック開会式の意義」は何か

昨日は20時から23時45分まで国立競技場において東京オリンピックの開会式が行われました。

式典では新型コロナウイルス感染症の下での選手たちの様子を表現した舞踏や江戸時代の職人の姿を模した出演者によるタップダンスなどが披露されるとともに、205の国や地域、組織などの選手団の入場行進が行われ、今上陛下による開会宣言、橋本聖子大会組織委員会会長とトーマス・バッハ国際オリンピック委員会会長による挨拶などが続き、最後に聖火台への聖火の点灯が挙行されました。

それぞれの演技などについては十分に鍛錬を施された出演者が持てる力を発揮したとはいえ、各部分を繋ぎ合わせると何を意味するのかが不明瞭で、統一感に欠けるものでした。

特に聖火の点灯の直前に市川海老蔵丈が『暫』の鎌倉権五郎の出で立ちで現れて見えを切る場面などは、内容そのものは興味深いものであっても前後の展開からすれば唐突感は否めないものでした。

もとより、こうした混淆性、雑種性こそが東京の魅力であり成長の源であるという確かな考えに基づいての企画であればよいものの、全編を通してみるとそうした強い意志は認められませんでした。

それだけに、様々な要素を撚り合わせて当座を取り繕った感は否めず、全体として散漫な印象となったことは残念であったと言えます。

また、選手団の入場については、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』など著名なビデオゲーム作品の主題曲などを繋ぎ合わせて行進曲として活用し、各国・地域・組織の名称を立て看板の中の吹き出しに記載したことは、現代の日本の大衆文化を象徴する要素を活用しており、「今の日本」の姿を示すという点では一定の意義がありました。

その一方で、既存の作品を利用することは新たな作品の想像の機会が失われたことになり、東京オリンピックを振り返る際に大会を代表する音楽作品の欠如をもたらすことになりかねません。

そうした作品が必要であるか否かについては議論の余地があるとはいえ1964年の大会において古関裕而の『オリンピック・マーチ』が大会の象徴として現在まで伝えられていることを考えれば、こうした機会の逸失が後年2021年の大会の輪郭をあいまいにする可能性がある点には注意が必要となります。

何より、既定の事項であるとはいえ入場の順番を従来のアルファベット順ではなく五十音順を原則とし、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国を日本で一般的に用いられる「イギリス」ではなく「英国」と表記する一方で韓国は「大韓民国」とするなど一貫性を欠く対応をしたことは、かえって複雑さを増すことになりました。

こうした表記の方法については各国の要望を踏まえた措置であるかも知れないものの、五十音順に馴染みのない大多数の外国の人々にとっては不親切であり、日本の人々も原則はあっても例外の多い配列に当惑を余儀なくされるなど、五十音順を採用した利点を活かしきれなかったことは、大会組織委員会の反省すべき点です。

橋本氏とバッハ氏の挨拶は、儀礼的な挨拶は儀式には必要ながら実質的な意味に乏しいという経験則を実証するに足るものであり、"solidarity"を繰り返し「連帯こそがオリンピックの重要な価値である」と強調しつつも「誰との連帯か」という点を最後まで明確に示さなかったバッハ氏の挨拶は巧言令色の域を出ないものでした。

その意味において、今回の開会式は予定終了時間の超過はあったもののその他に目立った事故などがなかったという点で無事に終わったのであり、開会式を行えたことが最大の意義であったと言えるでしょう。

<Executive Summary>
What Is a Meaning of the Opening Ceremony of the Tokyo Olympics? (Yusuke Suzumura)

The Tokyo Olympics held the Opening Ceremony at the Japan National Stadium on 23rd July 2021. In this occasion we examine a meaning of the Ceremony.

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