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【評伝】マーティ・キーナート氏--日本のスポーツ界の発展に貢献した生涯

11月9日(土)、スポーツ代理人やスポーツライターであったマーティ・キーナートさんが逝去しました。享年78歳でした。

キーナート氏は1946年7月19日にカリフォルニア州ロサンゼルス生まれ、スタンフォード大学政治学部に在学中の1965年に特別交換留学生として来日して慶應義塾大学に在籍し、卒業後の1969年には再び来日して同大学の日本語コースを修了しました。このとき、慶應義塾大学法学部助教授であった池井優先生の知遇を得て、長く交流することになります。

その後、ローダイ・オリオンズのジェネラル・マネージャー、太平洋クラブライオンズ、デサントを経て1980年にスポーツ経営コンサルティングのISMAC(International Sports Management and Consultant)を設立するとともに、1990年から1991年にはバーミングハム・バロンズ共同経営者を務めます。

この間、プロ野球のテレビ、ラジオの解説をするかたわら、来日外国人選手の相談相手になるなど、日米のスポーツ交流に貢献し、2004年には東北楽天ゴールデンイーグルスの初代ゼネラル・マネージャーに、2018年には仙台89ersのオーナー代行兼シニアゼネラルマネージャーに就任するなど、プロ・スポーツの実務にも携わりました。

ところで、私は幸運にも2001年から2003年にかけて、毎年キーナートさんに直接お話を伺う機会を得ました。

毎回お会いするごとに日本のスポーツ界の置かれた現状を明晰に分析し、問題点と解決方法を提示する様子は、常に理想像としての米国を手本にするものであるとともに、日米のスポーツを取り巻くかだを知悉するからこその発言でもありました。

例えば、2003年5月30日(金)にお会いした際には「スポーツか学問か」という日本のアマチュア・スポーツ界の現状を批判し、スポーツでも学問でも優秀な成績を収める「スカラー・アスリート」の重要性を訴えたのは、一面では全米大学体育協会(NCAA)を念頭に置いたものであり、他面では2019年の大学スポーツ協会(UNIVAS)に先んじて日本のスポーツ界の持つ構造的な問題を理解されていたことを示しています。

あるいは、2001年6月26日(火)には、オリンピックのメダル数は各国・地域の人口ではなく設備と指導者への投資額に比例すると指摘されており、その後スポーツ庁が発足して体系的な競技スポーツ政策、特にオリンピックのメダル獲得数の向上を重点的な施策とするより前に、問題の所在を把握されていました。

一方、イーグルスのゼネラル・マネージャーを務められた際は、外国人選手の獲得や球団の運営への手腕の発揮を期待されたものの、成績が低迷したことを理由として球団創設初年度となる2005年のシーズンの4月29日(金)に解任されるなど、理論と実践の両立の難しさを体験されてもいます。

ただ、その後もイーグルスや仙台市との関わりが途絶えることはなく、最後まで仙台89ersのシニアアドバイザーを務め、チームの発展に貢献されたものでした。

それとともに、キーナートさんは日本のプロ野球の恩人でもありました。

すなわち、1973年、ヤクルトアトムズがニューヨーク・ヤンキースやシカゴ・カブスなどに在籍していたジョー・ペピトーン選手を年俸7万ドルで獲得した際、日本だけでなくニューヨークでも話題となりました。

しかし、ペピトーン選手は14試合に出場しただけで日本を去ることになり、「史上最悪の外国人選手」として批判されることになりました。

帰国後、ペピトーン選手はThe New York Timesに日本野球を批判する記事"The Joe Pepitone Prayer: Don't Let Me Die in Japan"を寄稿し、自分に非がないにもかかわらずアトムズは自分を不当に扱い、日本球界やファンも敵対的であったと批判しました[1]。

これに対し、キーナートさんは太平洋クラブライオンズの企画室長としてThe New York Timesに反論を掲載し、ペピトーン選手が日本滞在中にどれほど欺瞞的で不誠実な行動をとっていたかを示すとともに、「日本球界は二度とジョー・ペピトーンのような選手を目にしたいとは思わない」と徹底して批判し、ペピトーン選手の主張が不当であるとしたのでした[2]。

キーナートさんの反論によってペピトーン選手の素行の悪さが明らかとなり、日本のプロ野球界への批判が適切なものではないという理解が米国の読者の間に共有されたことで記事の信憑性が失われ、ペピトーン選手は「いずれ大リーグに復帰したい」という希望を実現できなくなったのでした。

日本のスポーツ界の発展を運営や経営の面から支えたマーティ・キーナートさんのご冥福をお祈り申し上げます。

[1]Joe Pepitone, The Joe Pepitone Prayer: Don't Let Me Die in Japan. The New York Times, 19th May 1974.
[2]Marty Kuehnert, The Pepitone Problem in Japan: Maybe the Problem Is Pepitone. The New York Times, 25th August 1974.

<Executive Summary>
Critical Biography: Mr Marty Kuehnert, a Person Who Contributes the Development of Japanese Sports (Yusuke Suzumura)

Mr Marty Kuehnert, the First General Manager of the Tohoku Rakuten Eagles and sports writer, had passed away at the age of 78 on 9th November 2024. Mr Kuehnert has contributed the development of Japanese sports as the professional executive.

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