村上雅則氏の大リーグ昇格60周年を祝す

9月1日(日)、村上雅則さんが1964年9月1日(火)にシェイ・スタジアムで行われたサンフランシスコ・ジャイアンツ対ニューヨーク・メッツの試合にジャイアンツの一員として登板し、東洋人として初の大リーグ選手となってから60年を迎えました。

村上さんが日米の野球界の発展と相互交流に果たした役割については、今年1月1日(月)の朝日新聞朝刊の新年特集第4部6面に掲載された私の談話に基づく記事「「大谷時代」あらゆる壁を超越」[1]でお話しした通りです。

そこで、今日は村上さんが大リーグに登場するまでの日米の野球界の関わりや村上さんが日本に帰国して以降の状況を検討します。

戦前の米国球界の状況として特筆すべきことの一つは、大リーグは東海岸から中西部までしか球団が所在しなかったことです。

現在はロサンゼルスとサンフランシスコに拠点を置くドジャースとジャイアンツの西海岸移転は1958年のことでした。

また、大リーグでは1947年4月15日(火)のジャッキー・ロビンソン選手のブルックリン・ドジャース昇格まで、原則として有色人種は在籍せず、キューバ人が「褐色の人」という表現によって例外的に所属していたのみでした。

そして、日本人・日系人選手は独立球団や日系人球団に所属して活動していました。

このうち、独立球団に所属した一人が三神吾朗選手であり、1914(大正3)年に白人と有色人種が所属する職業球団オールネーションズに入団し、日本人として最初の職業野球選手となりました。

日系人球団については、カナダ在住の日系人を中心とした球団であるバンクーバー朝日が1914年に結成され、日米開戦の影響で1941(昭和16)年に解散するまで活動を続けていました。

このように、戦前の日米の野球については、選手の交流という点でほとんど隔絶された状態にあったと言えます。

ところで、南海ホークスは野球技術の向上のため、日本球界で初の試みとなる大リーグのスプリング・トレーニングへの選手の派遣を計画し、1963(昭和38)年に林俊彦選手(1963年入団)をサンフランシスコ・ジャイアンツのスプリング・トレーニングに送り出しました。

さらに、翌年になると、ホークスは村上雅則選手(1962年入団)、高橋博士選手(1964年入団)、田中達彦選手(1964年入団)の3選手をサンフランシスコ・ジャイアンツのスプリング・トレーニングに派遣し、練習だけでなく、選手登録を行ってエキシビジョン・ゲームにも出場するという初の試みがなされる。

前年の林選手は練習に出場したのみでしたから、画期的な取り組みであったことが分かります。

スプリング・トレーニング終了後、ジャイアンツは村上選手と高橋選手を傘下のマイナー・リーグ球団に配属し、田中選手の配属は見送られました。

村上選手はA級のフレズノ・ジャイアンツ、高橋選手はルーキー・リーグのマジック・バレー・カウボーイズに所属し、村上選手は抑え投手49試合に登板して、11勝7敗、防御率1.78、159奪三振を、田中選手は28試合に出場して打率.250、0本塁打、11打点を記録しました。

大リーグでは9月1日に出場選手登録枠が25名から40名に増員されます。

1964年のジャイアンツは、AAA級、AA級だけでなく、A級からも選手の起用を計画していました。

A級のフレズノ・ジャイアンツについては、首位打者(ボブ・テイラー)、本塁打王(オーリー・ブラウン)、最多勝(ペドロ・レイノソ)を獲得した選手がいたものの、実際に昇格したのは村上選手でした。

これは、救援投手を強化したいジャイアンツの方針と村上選手のフレズノでの活躍が合致した結果で、テイラー選手は1970年、ブラウン選手は1965年に昇格したものの、レイノソ選手は昇格で無かったことを考えれば、実に重要な機会を手にしたと言えるでしょう。

さて、メッツ戦に出場した村上選手は、最終的に最終的に9試合に登板して1勝0敗、防御率1.80を記録し、9月29日(火)のコルト‘45(現在のヒューストン・アストロズ)との試合ではアジア出身の選手として初めて大リーグで勝利を収めました。

その後、シーズンが終了すると、村上選手はジャイアンツとの間で来季の契約を結ぶ一方、ホークスは村上選手の保有権と契約の無効を主張し、ジャイアンツと対立することになりました。

両者の紛争は最終的に日米両球界のコミッショナーであるフォード・フリックと内村祐之の介入によって解決し、村上選手は1965年はジャイアンツに所属し、1966年からは日本球界に復帰することで決着しました。

そして、村上選手は両者の合意の通り、1965年をもってジャイアンツを退団し、ホークスに復帰することになります。

村上選手の退団以降、「日系人大リーガー」やマイナー・リーグに所属する選手はいたものの、「日本人大リーグ選手」は現れませんでした。

この間に挙げられる名前としては、アトリー・ハマカー選手、小川邦和選手(1979-1980年までマイナー・リーグに在籍)、江夏豊選手(1985年にミルウォーキー・ブリュワーズとマイナー契約)などがいます。

それでは、何故村上選手の退団後に「日本人大リーグ選手」が続かなかったのでしょうか。

大リーグ側の事情として挙げられる最大の要因は日本球界への評価の低さでした。

すなわち、1970年代までは大リーグでは通用しなくなった選手の所属先であり、1980年代は大リーグに所属できない選手の調整のための場所という性格を持つのが日本のプロ野球への見方でした。

あるいは、北米及び中南米以外の地域からの選手獲得の必要性の低さも重要であるとともに、大学スポーツにおける地位や中南米、特にドミニカでの選手獲得の優先度の高さが挙げられます。

トロント・ブルージェイズがドミニカで 野球学校野球学校を建設したのは1979年であり、その後大リーグの各球団が同様の取り組みを行い、他の地域の選手を獲得するという意欲に欠けるところがありました。

これに対し、日本側の事情としては、日米球界の待遇の差の小ささが挙げられます。

例えば、1980年の最高年俸は、大リーグにおいてはノーラン・ライアン選手の100万ドル(約2億4千万円)であり、日本プロ野球は王貞治選手の8000万円と約3倍の差でした。

それにもかかわらず、言語や生活習慣の障壁、さらには日米野球の成績に象徴される実力の格差が大リーグのロサンゼルスオリンピックの出場をためらわせる原因になるであり、年俸の差が3倍程度であれば、危険を冒して渡米する必要はないと思われたのでした。

このように、村上雅則選手が開拓した日米の野球交流の接点は、1995年5月2日(火)に野茂英雄選手がドジャースに昇格するまで30年にわたり空白の時間が生じたのでした。

以上のように、村上さんがいなければ日米の野球を通した交流は違ったものになっていたことでしょうから、その意味でも村上さんの果たす役割は大きいものと言えるのです。

[1]「大谷時代」あらゆる壁を超越. 朝日新聞, 2024年1月1日朝刊新年特集第4部6面.

<Executive Summary>
Celebrating Mr Masanori Murakami's 60th Anniversary for His Debut to the MLB (Yusuke Suzumura)

The 1st September, 2024 was the 60th Anniversary of Mr Murakami's debut to the MLB. On this occasion, we examine the his achievements and contribution to relationship between Japanese baseball and the MLB.

いいなと思ったら応援しよう!