【評伝】海部俊樹氏--清新な印象と脆弱な権力基盤で日本の難局に挑んだ首相
去る1月9日(日)、海部俊樹元首相が逝去しました。享年91歳でした。
いわゆるリクルート疑惑や宇野宗佑首相の醜聞によって世論の批判を受けた自民党が、弁舌が巧みで清新な印象を持たれていた海部氏を首相として擁立したことは周知のとおりです。
それまで閣僚経験は福田内閣と中曽根内閣で2度にわたり文部大臣を務めただけであった海部氏は、犬養毅内閣と斎藤実内閣で文相を歴任したのみで、1954年に首班となった鳩山一郎と同じ経歴を持っていました。
鳩山が田中義一内閣で内閣書記官長を務め、1942年のいわゆる翼賛選挙では非推薦候補として立候補して当選するなど、行政面での経験や政治家としての実績を積んできたことに比べれば、必ずしも豊富な知見を有しているとは言えませんでした。
海部氏のある種の経験の乏しさと所属した河本派が小勢力であったことは、一面では幹事長として党務を差配した小沢一郎氏の権力の肥大化と党内での存在感の向上をもたらし、他面では1993年6月の自民党離党と新生党の結成から8党7会派による非自民非共産連立政権の誕生への伏線となりました。
一方、それまで権力の中心の座にいなかった海部氏の持つ印象のよさは有権者の支持を集め、演説のさわやかさと相俟って1990年の総選挙で自民党は勝利を収めます。
このように自民党政権の維持に貢献した海部氏も、1990年8月2日に起きたイラクによるクウェートへの侵攻とその後の米国主導による湾岸戦争の発生により困難な局面に直面します。
最終的に湾岸戦争の停戦後に海上自衛隊の掃海部隊をペルシア湾に派遣し、戦費として130億ドルを拠出した海部内閣ではあったものの、後にクウェート政府が米国の主要各紙に掲載した感謝の意を記した広告に日本の名前はなく、多国籍軍に参加しなかったことが国際社会における日本の存在感の低下をもたらしました。
内政面では政治改革を政権の重要な課題としたものの、小選挙区制度の導入を中心とする政治改革関連法案は審議未了廃案となりました。しかも、廃案に際して「重大な決意で臨む」と発言したことで解散総選挙を示唆すると受け止められ、自民党内で反海部の動きが強まり、結果として退陣に至ったものでした。
ただ、国民の支持は一貫して高かったことも事実で、海部氏は自らの最大の強みであった清新な印象を政権の運営に活かしきることが出来なかったことが分かります。
こうした様子は海部氏の経験の絶対量や権力の基盤の弱さを窺わせるものでもあります。
あるいは、1994年に自民党を離党して以降、新生党を振り出しに諸政党を経て自民党に復党したことや、2009年の総選挙では自民党総裁経験者として1963年の石橋湛山以来46年ぶり2人目となる落選を経験したことなどは、海部氏の勝負どころでの弱さを推察させるものです。
それでも、1991年のペルシア湾への掃海艇の派遣は自衛隊にとって初の本格的な海外任務であり、後の国連平和維持活動への参加に繋がるなど、冷戦後の激動する国際情勢の中で日本が直面した政策的な課題の解決に尽力した功績は色褪せるものではありません。
むしろ、自民党が逆境の中にあったからこそ、平時では難しかった総理総裁の座を手に出来たことを含め、憲政史に残る政治家の一人である海部俊樹元首相のご冥福をお祈り申し上げます。
<Executive Summary>
Critical Biography: Dr. Toshiki Kaifu, A Prime Minister Who Had to Overcome Japan's Difficult Times (Yusuke Suzumura)
Former Prime Minister Dr. Toshiki Kaifu had passed away at the age of 91 on 9th January 2022. Dr. Kaifu is a statesperson who had to manage and control Japan's difficult times with his weak political power base.
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