【追悼文】中西太さんについて思い出すいくつかのこと

去る5月11日(木)、西鉄ライオンズの中心打者で、ライオンズをはじめとする各球団で監督やコーチを務めた中西太さんが逝去されました。享年90歳でした。

市立高松第一高等学校を卒業した1952年にライオンズに入団し、この年に新人王を獲得したことをはじめとして7年目までの間に本塁打王を5回、打点王を3回、首位打者を2回獲得するなど、中西さんは当時の球界を代表する強打者として活躍しました。

また、1962年から1969年までライオンズで選手兼任監督を務めたほか、日本ハムファイターズ、阪神タイガースでも監督を歴任したほか、ヤクルトアトムズを皮切りに1997年まで延べ8球団でコーチを務めたこと、さらにイチロー選手や若松勉選手など球史に残る大打者を指導し、1999年に野球殿堂入りしたことは広く知られることです。

ところで、中西さんの姿を見て思い浮かぶのが、大リーグで7年連続本塁打王となったラルフ・カイナーです。

選手としての特徴も成績も、さらには一方が引退後も指導者として球界に残り、他方は解説者として名を成すというように、中西さんとカイナーの足跡は異なります。

しかし、ともに選手として活動した前半期に本塁打で一時代を画し、本塁打の持つ魅力を観客に深く印象付けたという点で、同じ軌跡を描いていたと言えるでしょう。

特に、中西さんに関しては選手兼任監督となってから出場の機会が減る中でも代打として長打力を発揮したことは注目すべき点の一つです。

実際、今年3月31日(金)にNHK総合で放送された『チコちゃんに叱られる!』で私が解説役を務め、野球で監督がユニフォームを着用する理由を解説した際、番組内で選手兼任監督の本塁打についても紹介されました。

この時、歴代の選手兼任監督が記録した本塁打を調べたところ、中西さんは9本を放っていたことが確認できました。

9本の本塁打の内訳は、以下の通りでした。


1965年7月2日
1966年5月21日
1966年8月16日(サヨナラ本塁打)
1966年8月28日
1966年9月14日
1966年9月30日
1967年5月21日
1967年5月24日
1968年6月5日


中西さんは、高井保弘選手に抜かれるまで、代打本塁打記録(13本)の保持者でした。高井さんは最終的に代打として27本塁打を記録することになるものの、上記の選手兼任監督としての9本塁打は、中西さんが代打としても強打者ぶりを遺憾なく発揮していたことを示すものです。

このように、「怪童」と呼ばれた中西さんは、選手、監督、コーチとしていずれも野球の歴史に残る足跡を残しました。

改めてご冥福をお祈り申し上げます。

<Executive Summary>
Miscellaneous Memories of Mr. Futoshi Nakanishi (Yusuke Suzumura)

Mr. Futoshi Nakanishi, a Hall of Famer and a former player for the Nishitetsu Lions, had passed away at the age of 90 on 11th May 2023. On this occasion, I remember miscellaneous memories of Mr. Nakanishi.

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