孝元天皇とオオヒコ
実在しないとされた欠史八代の歴代天皇ですが、稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文から、注目が集まりました。
金錯銘鉄剣の銘文
1978年、埼玉県行田市の稲荷山古墳から「稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)」が出土し、剣の表には57字、裏には58字の計115字の銘文が刻まれていました。
では、銘文を見てみましょう。
訓読:辛亥の年七月中記す。乎獲居の巨。上祖、名は意富比垝、其の児、多加利の足尼、其の児、名は弖已加利獲居、其の児、名は多加披次獲居、其の児、名は多沙鬼獲居、其の児、名は半弖比
訓読:其の児、名は加差披余、其の児、名は乎獲居の臣。世々杖刀人の首と為り、奉事し来たり今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼の宮に在る時、吾天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記す也
*銘文は、「辛亥の年七月中に記した事として、乎獲居の祖先、意富比垝から乎獲居までの系譜と、世々杖刀人の長として仕え、乎獲居が獲加多支鹵大王(雄略天皇)が斯鬼宮にいたとき、天下を治める補佐し、その記念として何回も練り直した剣を作り、獲加多支鹵大王に仕えている由来を剣に刻むという」という内容です。
この銘文により、5世紀の後半には大王の権力が関東地方にまで及んでいたとして、学術的に大きな発見となりました。
なお雄略天皇は、古事記の中で葛城山の一言主に出会った天皇です。
オオヒコ皇子
銘文に記された「上祖、名は意富比垝」の意富比垝を、第八代の孝元天皇の皇子「大毘古命(大彦命)」に比定する説があります。
古事記には、孝元天皇の系譜について記されています。
意訳:孝元天皇は、軽の堺原宮で天下を治めました。穂積臣の祖先である内色許男命の妹、内色許売命を娶った産んだ子供が大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘々命(開化天皇)の三柱です。
*伊賀国一宮、敢國神社(三重県伊賀市)は大彦命を主祭神として祀っています。社伝によると、神社近くの御墓山古墳は大彦命の御陵とされています。
大毘古の派遣
大毘古命は、崇神天皇の時代になると、高志道平定のため命によって派遣されます。
意訳:祟神天皇のとき、大毘古命を高志道に派遣し、また子の建沼河別命を東の12ヶ国に派遣し、従わない人たちを服従させました。
*高志道は、福井県から山形県に至る日本海沿岸部の旧国名です。
四道将軍たち
日本書紀には崇神天皇の時代に、大彦を含めた四人の将軍が、四道将軍として各地に派遣されたことが記されています。
意訳:九月丙戌朔甲午、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、派遣しました。吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波に派遣しました。
大毘古と建沼河別
古事記では、大毘古と息子の建沼河別が出会う場面があります。
意訳:大毘古命は命令通りに、高志国へと行きました。そこで東へ派遣された建沼河別は、父の大毘古に相津で合流しました。そのことから、この地を相津と呼ぶようになりました。
*相津は、今の福島県の会津です。
福島県会津美里町にある伊佐須美神社は、大毘古と建沼河別の親子が国家鎮護神を祀ったのが創始とされています。
このように記紀の記述や金錯銘鉄剣の銘文によって、四道将軍や孝元天皇の存在が、創作ではなく伝承に基づく話だとすれば、欠史八代の意味合いも違ってくるのかもしれません。