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日本の教育が素晴らしいって本当だろうか?
メディアでは日本式の教育を賞賛されがちですが、私はそうは思いません。決められた課題をきっちりこなすソルジャーは育つけど、クリエイティブでなくなるように最適化されたのが今の社会全体の教育観に思えます。そこに警鐘を鳴らすメッセージを管理職も認めてくれて2つの学年の学年通信に載せてもらえるなんて、昭和学院は懐の深い学校です(都合の悪くなる先生いると思うけどなー)。
9月発行:過学習
日本の教育は「過学習」を起こしているかもしれません。
ChatGPT、 Gemini、 Copilotといった自然言語で会話のできる生成AIが社会に浸透しつつあります。これらの生成AIを支える技術の1つが機械学習であり、膨大なデータをコンピュータが学習することによって適切な文を生成することができます。この際、少ないパターンのデータしか準備せずに学習させてしまうことを過学習といいます。例えば「好きな動物は?」に対して「犬です」ばかりの文章だけを学習しすぎて『”好きな…”と来たら”犬”が最適なんだ』と過度に適合し、新しいパターンには対応できなくなってしまうような状況が過学習です。この残念な生成AIに「好きな食べ物は?」と聞くと「犬です」と返ってきます。
PISAの調査結果などを見ると日本の教育水準は世界的にも非常に高いものであるにも関わらず、「日本からGAFAが生まれない」といった矛盾するような問題を抱えています。これは日本の教育システムが過学習を引き起こし、創造性や柔軟な思考力が育ちにくくなっているのではないでしょうか。学校の勉強をしっかりやることが子どもの学びの全てになってしまい、学校の外にも膨大な学びの機会があるのに、それらを見逃し続けているのです。そうすると、与えられた課題にだけは適合し、自分で考える柔軟性を失い続ける心配があります。
その原因の一つは学校の中にあります。PISAで評価されるような教育内容を誰もが100%達成できるようにと、「これさえやれば大丈夫」と学びを限定する教師は少なくありません。遠回りし、寄り道し、間違いを繰り返しながら辿り着けばよいものを、最短ルートのみを教えてしまうことを指します。これがまさに少なすぎる学習データによる過学習です。もう一つの原因は学校の外にあります。学びとは学校で完結するもので、学校の外の体験とは全く異なるものであると考えてしまっているのです。夏休みのレジャーも、休日のショッピングも、日常の家事でさえも、そこには何か新たな気付きがあり、それまでの自分にないものを得られる機会です。もちろん休息を取るだけの時間も必要です。しかし、時間と労力をただ消費するだけではなく、何かしらの成長を感じる時間を過ごすことがいかに有意義であるかを、私たち大人が示すことが大事なのではないでしょうか。そうして玉石混淆の膨大な学習データを与えられ、自分から新たなデータを得ようという姿勢を身につけた子どもは、社会が期待する優秀な人財となり、何より本人が幸せな人生を歩めると期待できます。
11月発行:ゴール逆算思考の功罪
「テストに向けて計画的に勉強をする」 こんな使い古されたような文言を疑ってみます。
ビジネスの世界において期日の決まったプロジェクトを進める際に、ゴール逆算思考でタスクを細かく切り分け、計画を立てることは非常に有効な戦略であることが知られています。同様に学校においても文化祭のような行事においては、そうしたゴール逆算思考ができるかどうかが成功の可否を決めることが少なくありません。ところが、学校生活の主軸である学習や部活動などにおいてもゴール逆算思考は本当に有効なのでしょうか。
まずは運動系の部活動について考えてみると「大会に向けて厳しい練習をやり抜く」といったフレーズがよく聞かれます。ここで、大会で勝つことは一つの目標に過ぎず、目的は当該競技を楽しみ、上達し、今後の人生に一つの彩りを追加するために取り組んでいるはずです。そんな本来の目的にたどり着いていると、高3で引退後にも後輩と一緒に部活に参加したり、社会人になってからもその競技を続けたりすることができます。しかし、誰かに言われるがままに、大会で勝つことが唯一の目的と勘違いしたまま思考停止すると、引退したら二度とその競技には関わらなくなってしまうでしょう。これはあまりにもったいなく、悲しいことです。
では次に、この考え方を定期考査や受験に持ち込むことについて考えます。定期考査の直前だけ必死に勉強し、終わると学習から離れるというのは、上述の運動部の例でいえば、大会直前だけ練習し、大会の結果に関わらず終わると練習をしなくなるようなものです。部活で考えればこのサイクルをいくら繰り返しても成長は望めず、あまりに愚かな行動だとわかるのに、多くの中高生は学習面でこれを繰り返しています。「次の定期考査が」「次の模試が」と、隙を作らず次の目標を提示することで対処しようとする大人は少なくありません。しかし、ゴール逆算思考をすれば定期考査直前で詰め込んだほうが、点数を最大化するにはコストパフォーマンスが良いことに気づきます。特に定期考査では「試験範囲」という文化があり、毎回同じ土俵で戦い続ける運動部の大会より、継続的な努力より直前の対策が有利に働くことが多いです。さらには大学受験になるといよいよ次の目標の提示が難しく、合格を勝ち取った瞬間にそれまで学んだ全教科の知識が消えてよいとすら考えがちです。
ここまで述べたとおり、目標を提示しゴール逆算思考を推奨すると、学びの本来の形を歪めます。学びにゴールはありません。学びとは、一歩一歩成長することの喜びをモチベーションの主軸にし、定期考査はその成長を感じるためのスパイスであるべきです。部活の大会で惜敗して悔しくて大会翌日から猛練習をするように、定期考査を終えた翌日から猛勉強をする中高生がどれほどいるでしょうか。学びに向かう子どもの姿を見たくて大人が過剰に提示するゴールが、逆に主体的な学びに向かう態度を失わせているのかもしれません。
12月発行:授業をサボるとは?
「サボる」の語源はフランス語のsabotage(サボタージュ)に由来すると言われています。労働者による抗議活動として怠ける行為が元の使い方で、いつしか学業に対しても使われるようになったようです。労働者がサボるのは、抗議活動として労働環境や待遇を改善してほしいという目的や、少ない作業で報酬を得ようとする目的が考えられます。おそらく、前者の抗議活動という使い方より、後者のズルをしてやるべき仕事をやらないという意味の方がよく使われるでしょう。労働の場合は報酬をもらう対価としての労働が減れば減るだけ労働者側に得があるわけなので、サボる動機は十分に納得ができます。もちろん一社会人としてサボることは良くないことですが。
さて、これに対して学生の活動全般についても同様に、やる予定だったものをやらないという意味で「サボる」が使われると思われます。具体的には授業をサボる、部活をサボるといったよく聞く表現について考えてみましょう。結論から述べると、授業をはじめとした活動すべては生徒自身の成長のために行っているので、サボるとその機会を失ってしまい、報酬はなくなってしまうのです。それではなぜサボるという表現が労働から学習について拡大してしまったのでしょう。それは大人が、参加するだけで報酬を与えることが多かったからです。例えば、授業に出席するだけで成績が上がる、部活に休まず参加するだけでレギュラーに選ばれる、といった報酬です。サボったことがバレなければ子ども側に明確な報酬がある場合、労働と同様にサボる動機が生まれるのも無理はありません。有名大学の卒業歴さえあれば社会で認められていた時代に、大学生がサボって単位を取得することが増えたのでしょう。しかし今も昔も中高生の多くは大学受験という機会があるので、サボって一定の成績を得ても手に入るのは高卒資格までなのですが、「サボる」は中高生にも広まりました。「サボることは良くないこと。だからサボらず学校へ行きなさい」は一見ふさわしい表現のように見えます。しかし、そもそも対価をもらう労働ではなく、学び、成長することだけに集中してよい中学生にとっては「サボる」が成立しないという説明の方がよいのではないでしょうか。