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(小説)星の降る街 5

 母は静かに話し始めた。
「それぞれに背負ってとる宿命はどうしようもないけどなあ、人と触れ合うとちょっとだけ生きる元気が出るんじゃ」
「はい、ありがとうございます。お遍路さんを見たこともないし、宗旨が違うので、近くのお寺にお参りもしたことがないのに大丈夫かしら」
有里は小さな声でそう言った。
「そりゃあ、どうでもええことじゃ。宗旨なんて勝手に人間が仕分けしているだけじゃしな。四国のお遍路さんの始まりはな、お大師様が修行のために四国各地を巡っとったそうじゃ。ちょうど伊予の国の荏原えばらごうで、喜捨を求めて立ち寄ったときのう、衛門えもん三郎さぶろうという強欲な金持ちが、ケチじゃったんじゃのう。あろうことかのう、大師様を口汚く罵りながら追い払ったそうじゃ。しかもお大師様をどついたらしい。それからちゅうもの、衛門の八人の子供が次々に死んだんじゃ。罰があたったのかのう。ほいじゃけえ、ぼっこい反省をしてお大師様の許しを乞うために追いかけるように四国じゅうを巡った、それが今のお遍路さんの道じゃ。今まで信仰してなかったくらいなんちゅうことじゃないのう」
 母は強烈な白石弁で有里に語りかけた。年齢としを取ったものだ。かつての母は島の人以外には標準語で話す気遣いをしていた。
 話が続きそうだったが、次兄が遮るように明るく言った。
「有里さん、ぼっこいはすごいとかの意味じゃ。それよりも今夜は楽しい酒が飲めるな。宴会じゃ。マサ、漁業組合に電話して、タイやタコの注文もしといてくれ、刺身を作っちゃる」
 次兄は釣り好きなだけに刺身など魚料理は玄人顔負けの腕前だ。
 再び現れた父が、話を聞いていたのだろう。
「賑やかにやるか。歌うか有里ちゃん」
 なんと父は有里を思い出している。私もそうだったが、友人や近所の人は有里と呼び捨てで、同級生の女の子はユリッペと呼んでいたが、父だけは有里ちゃんだった。「有里ちゃあん」と石巻弁をまねるばかりに変な発音だった。その頃と同じ発音で話しかけている。母はそれを察しているのだろう、声を荒げていない。
 認知症が進んでいるはずの父と朝から会話が成立しているのも不思議でもあった。家族がこれだけにこやかに接しているのだからしばらくは大丈夫だろう、そう感じさせた。
 私は帰省の目的は四国八十八ヵ所参りと母には伝えていた。本当は二週間しか滞在できないが、父の介護をしたかったからだ。たとえ二週間でも親孝行の真似ごとがしたかった。二人の兄には帰省前に癌の進行具合を電話で話したが、母にはまだ伝えていない。どうやら、すぐには言える雰囲気にはならなさそうだ。
「有里さんは蒼白いしガリガリじゃのう」
 昼ご飯を食べた後、洗い物をする有里の後姿をみて次兄はぽつりと言った。確かに痩せてきた年老いた母よりも細く思えた。
「東北の人は色白だよ。それにスレンダーって言ってやらなきゃね」
 私がそう言うと有里は、
「マッサは優しいわ」
 振り向かずにそう言って笑った。

 賑やかな宴会になった。父は、母よりも石巻のことをよく思い出しているのか饒舌だ。
「有里ちゃん、尾形おがたさんは元気かな。若いけどよく気がきく人じゃ。なかなか定期預金をしてやれずに情けない。来月はボーナスが出るからしてやらんとなあ」
 時間的な混濁をしているが、つじつまは合っていた。
「おじちゃん、尾形さんはもう信用組合は退職して、今は息子さんが行っているわよ」
「有里ちゃんのお父さんは残念だったね」
 優しげな顔でそう言いながら有里の傍まで歩いていき頭を撫でた。有里は子供の頃と同じように目を細めている。小学生の頃、有里だけではなく、遊びに来た同級生の頭を撫でるのが父は好きだった。同級生の間では「撫で親父」と言われていた。
「おじちゃん、どうして父のこと知っているんですか」
 有里は酒が入ってほんのり頬が赤くなっているが、急に真顔でそう言った。
「挨拶に来たんじゃ。本谷さん、本谷さんって手を合わせていたのう。先に逝くからとも言っとったのう。わしの方が三つほど年寄りじゃのになあ」
 父はそう言って、天井をじっと見た。
「おばちゃん、どこで聞いたんですか、私は誰にも知らせていません。父が亡くなった時には母も心臓を悪くして寝た切り同然だったの。月の浦の祖父母も女川おながわの祖父母も亡くなっているし、だからちゃんとしたお葬式も出せなかった。お坊さん一人に来てもらうのがやっとだったの」
 有里は固まったようにじっと父の顔を見ていた。
私は両親に石巻の話はあまりしていない。父はなんとなく逃げ帰ったという弱味のようなものを抱えていたので、石巻の出来事を話す時は楽しいことばかりだった。
「お父さんは有里ちゃんが心配じゃったんじゃろ、それにしてもうちの父ちゃんに頼んでもねー、たぶん頼みに行くところをお父さんは間違えたんじゃろ」
 母がおどけてやっと元の宴会に戻った。朝方、有里を思い出していない母が、有里のお父さんの死を知っているとは思えなかった。案外、父の前に現れたのは本当に有里のお父さんだったかもしれない。三年間だが、父と有里のお父さんは、時間さえ合えば近所の居酒屋で酒を酌み交わすほど仲がよかった。第二次大戦の折り、共に陸軍でしかも中国戦線という共通の体験が親密さを増したのだろう。人の付き合いは期間の長短よりも濃密さが最後には出るのだろう、そう思った。
 再び歌い始めた父はこの日、疲れるということを忘れているかのようだった。父は終戦から十年余り船乗りをしている。全国を回っている間に覚えたのだろう、日本中の有名な民謡が歌えた。
「雅春、おまえと仲良しだったクラスで一番背の高い菅野君と声の大きな阿部君はどうしてる。あの二軒もよく世話になった。おまえはカンちゃんとかアベッツって呼んでいたかのう」
 私が小、中校生の頃、学校での出来事を聞く時にこの表情をしていた。最初から笑顔で質問してくる、その雰囲気のままだ。
「二人とも元気にしているよ。カンちゃんは日本で一番大きな商事会社に入り、今は東京本社にいるから時々会ってる。アベッツは地元の銀行で張り切ってる。支店長に出世した。去年の秋に石巻の小学校の同窓会があって、昔のように有里も加えた仲良し四人組が復活しとる」
 私は普通にそう答えた。父は「それはええ、それはええ」と何度も口にした。
 認知症は治るのか、そう思わせた。菅野かんの幸弘ゆきひろ阿部あべ進一郎しんいちろうは同じ泉町で、私が転校した時から有里と共によく遊んだ。父が初めて胃潰瘍になって家の前で苦しんだ時にたまたま通りかかり、車に乗せて石巻日赤病院まで運んでくれたのが菅野のお父さんだった。阿部のお母さんは石巻日赤の看護師をしていた。父が覚えていても不思議ではないほどの付き合いだったが、自分の息子がどこに住んでいるか分からないことが多いのに、あまりにも不思議だった。
 父はそれだけ言い、風呂に入る、と母を誘った。
「兄貴、今のはどういうことだろう」
 私はあっけにとられそう言うと、二人の兄は黙り込んだ。
「今のおじちゃんみたいに急に今までどおりになることってあるようですね。認知症でも楽しいことがあると時々思い出すらしいですよ」
 有里がそう言うと、「そういうこともあるか」と長兄が言って宴会は再開された。実に賑やかに飲み、二人の兄はいつの間にかソファーで寝ていた。
「白石島に来てよかった。お参りにはまだ行っていないけど、初日に父の話が聞けたもの」
 有里は涙を流しながら笑った。

      *

 強烈な日差しが目の中に差し込んでくる。雲は薄く天の高いところに申し訳程度にかかっているだけだ。被っている帽子のひさしを一段と下げて、あたりを見渡しても先程となんら変わらない風景だった。赤茶けた土の上に不揃いの石が転がっている。さらに目を遠くに向けても嚝野こうやが広がる。かろうじて太陽の傾きで方位が分かるだけだ。
 もう何日歩いているのだろうか。前日まであった食料も底を尽き、水筒の水も残りわずかだ。とにかく西へ。どこを向いても地平線しか見えないのは不気味だった。靴の中が生温かくなった。脱いでみるといつの間にか足の裏に出来たマメが割れ、さらに内側の肉に切れ目が入っている。血が固まっている所にさらに鮮血が溢れ出していた。
 そうしている間にも容赦なく、地上の生命を焼き尽くすかのような陽の槍が降る。気を取り直して歩く。少し進んだところで石につまずいていて転んだ。したたかに打った胸と顎の激痛で身動きが取れない。どうやら口の中も切れたのか、鉄の匂いと塩辛さが広がった。顔を少し上げると乾燥した大地が黒ずんでいた。相当な血が流れ出たようだ。力を振り絞って起き上がると、西の地平から長い杖をついた大きな男がこちらを向いてきているようだった。   
 太陽の光に遮られ顔は確認できない。
『西に向かってそのまま歩きなさい』
 ただそれだけを言って消えた。
 呆気にとられていると、普段より頼りない立ち姿の有里が立っていた。
「マッサ、マッサ、私の夢をかなえてね。さあ、歩いて」
 それだけを耳元で囁いて、今度は力強く速足で先に進み消えた。
「有里、有里、置いていかないでくれ。助けてくれ」

夢か。
口の中は異常に乾き胃痛もしていた。
 枕元に置いてある腕時計を見ると午後の八時を回ったところだった。チェックインしてすぐに眠りに落ちて三時間ほど経っていた。ベッドから起き上がると、腰に鉄を巻いているかのように重かった。外は相変わらずしとしと雨が降っている。
 海外に出ると初日に嫌な夢をよく見る。しかし、先程の夢は巡礼に誘うものだろう。杖を持って立っていたのは聖ヤコブに違いない。出発までに何度もサンティアゴ大聖堂の写真を見たので、夢に出てきたのではないだろうか。
 普通なら驚くべき夢でクリスチャンならば狂喜するかもしれない。だけど、あいにくキリスト教信仰は持ち合わせていない。私は有里が出てきただけで胸が張り裂けそうになる。津波で流されて以来なんの手がかりもない。有里の死はとっくに覚悟しているが、どうしても遺体を探し出して埋葬してやりたかった。それだけに胸騒ぎに変わってしまう。あるいは、胸騒ぎではなく、肺の癌が動き出したのか。あてもない考えが浮かんでは消えるが、どれも打ち消す他はない。
 聖ヤコブはキリスト十二聖人の一人で、サンティアゴ大聖堂に遺骸が収められている。そこには胸像もあり、巡礼の最後はその胸像を抱きしめて終わる。
 夢は吉兆のはずだ。
 もしかしたら有里が見つかったのだろうか。夢と直結して考えなくてもいいと思いながらも頭の中は支配されたままだった。日本時間は午後三時過ぎだ。誰かに電話したいが、友人らに電話することは憚られた。
 夕食をとる気分でもなかったが、巡礼時に雨に遭ってもいいように持参した雨合羽を着て外に出た。石畳の上を歩いている人はあまり雨を気にしていないようだった。平気で雨に打たれている人も多い。モンパルナス駅の周りはパリと言っても気取った雰囲気はなく下町の風情だが、それでも雨合羽は目立った。何人かに声を掛けられた、フランス語は全く分からないので、冷やかされていたとしても気にならない。
 駅の出入り口が見えるカフェに入った。背広を着た人たちが急ぎ足で通り過ぎる。
 さすがに店内では場違いな服装なので、少し恥ずかしくはなった。賑やかに魚介料理を楽しんでいる会社帰りのサラリーマンやカップルらで熱気に溢れていた。

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