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『Cult of the Lamb』感想:ゆるかわキャラの皮を被った、実利と倫理の狭間で揺れる危険なカルト教団運営。バグを超越する魅力が確かにある傑作インディー


2022年8月12日、開発:Massive Monster、パブリッシャー:Devolver Digitalのインディーゲーム『Cult of the Lamb』が発売されました。
対応プラットフォームはPC/Nintendo Switch/PS4/PS5/Xbox One/Xbox Series X|Sです。

端的に言えば「アクションローグライク+ライフシム+カルト教団運営」ゲームといったところでしょうか。

敵を倒し、資源を集め、寝食を確保し、集団を育て、更に敵を倒す。
インディー作品なのでそこまでボリュームは大きくないものの、様々な要素がクオリティ高いうえ、カルト教団という尖ったテーマと、全く尖っていないゆるくて可愛い動物風キャラクターの2大要素。

「可愛いキャラ」と「危険なカルト教団」という一見相反するのではないかと思われる要素が見事にマッチすることで、ゲームとしての面白さのみならず独特の恐怖体験をさせてくれた、名作、傑作インディーでした。



はじめに:なぜカルト教団を運営するのか

不気味な雰囲気の漂う中、子羊の可愛い主人公が悲しそうに道を歩く。そんなシーンからこのゲームは始まります。

道の先に待ち構えているのは、4人の教祖と魔法陣、そして大きな斧を構えた信者。主人公は、この教団での儀式において、生贄として殺されてしまいます。可哀想…。

泣いてる…

儀式というのはどうやら彼ら4人の教祖にとって敵対する教祖らしき存在を封印するものだったよう。この子羊はその目的を達するための生贄として、死んでしまうのです。

ところが。死んだ先でその敵対する教祖に「俺に協力するなら生かしてやる」と言われ、現世に復活。

ここから、自分を生贄とした4人の教祖たち(=自分を生かした教祖と敵対している4人の教祖)を倒すために、カルト教団を運営していく日々が始まります。



可愛すぎるキャラデザのカルト教団

トレイラーやスクリーンショットを一目見てわかる通り、とにかくキャラクターのビジュアルが可愛いゲームです。

特にカルト教団の教祖である主人公の子羊や、その他信者はまるでゆるキャラ、どうぶつの森のような印象。魅力的なビジュアルは、このゲームのブームを生んだ大きな要因であると思います。

「カルト教団運営」と聞くとかなり忌避すべき印象がありますが、そんな印象をゆるかわキャラが打ち消しています。

動物を模した顔と頭の大きいビジュアルはもはやぬいぐるみ。これがリアルな人間であればかなりホラー的なゲームになった可能性もありますが、まるでぬいぐるみのごっこあそびのような、フィクション感の強い印象となります。

正直、だから耐えられる絶妙なダークな感じがあるというか。結構やってることはえげつないゲームだと思うんですよね。

「このキャラデザ、可愛さを重視したんだな~、これはユーザーの目を引くよな~」と思っていたんですが、その後プレイして、ゲームが進めば進むほど「この内容は人間を模したキャラじゃ無理。色々なところから批判がきそうだし、人間だったら残酷すぎて心の負担が大きくなって結構プレイするのキツい」と思うようになりました。

可愛さはもちろんキャッチーでビジネス的に大きいと思いますが、副次的にゲームのえげつなさを緩和しているところもあると思うんです。そうでなければ、一部の生死にかかわるような演出に強い嫌悪感を生んでいたと考えます。

ただ、そういった意味では可愛いキャラでよかったものの、逆に怖さを生んだ部分もあるということは、後程述べさせていただきます。



超サクサクゆるふわHADESみたいなアクション

これを言うのは結構恥ずかしいんですが、私、5時間以上プレイしてもHADES1周もクリアできていません。これは割とショック。
「俺、長年ゲームやってきたのにこんなにゲーム下手なのか…」とびっくりしていますし、その傷はまだ癒えていません。それともそこまでアクションゲームを突き詰める気力がなくなったのか…。(でも『ENDER LILIES』や『Death’s Door』はクリアできました)

そんな私ですが、このゲームは特に詰むようなこともなくクリアできました。後述する一部バグでやり直すことはあれど、基本的には楽しく、1~2度のコンティニューのみでクリアまで遊べました。

アクションローグライク部分の基本システムはそれこそHADESのような、2Dのゼルダのようなゲーム性となっています。
1つのステージ内でいくつかの小さいマップを行き来し、ときにはタロットカードでパワーアップ、ときには店で武器や特殊攻撃購入など。

多くても10マップくらいで1ステージとなっており、1ステージクリアすると最近よくあるSlay the Spire的な進行ルート選択。
選択先により、同じような敵のいるステージや資源を得られるステージへ入るため、目的を定めて進む必要があります。
最終的にボスのいるマスにたどり着き、ボスを倒すのが目的です。

進行先により、信者を増やしたり資源を獲得出来たりします。

大体1回ダンジョンに潜ってボスを倒すまで5分から10分くらい。
かなりサクサク周回出来るゲームとなっています。
そして私は難易度ノーマルで行いましたが、そんなに難しくないので割とこういうゲームやったことない人でも気軽にプレイできると思います。

武器にも、剣や爪、斧などがあり、簡単に言えば攻撃速度が速い武器ほど1発の威力が弱く、その逆も然りです。
武器は最初のステージ開始時にランダムで獲得でき、その後もマップ中で拾ったり買ったりできます。
早さか、攻撃力か、それとも特殊な効果か。何を重視するかは完全に好みですね。私は斧が好きでした。

また、遠距離攻撃や範囲攻撃が可能な特殊攻撃も同じく最初のステージ開始時に獲得できます。こちらはいわゆるMP的なものがあり、使用するとそれが減ってゼロになると使えません。
デフォルトで使用できるのは特殊攻撃3回分だけだったと思います(道中で回復も出来ます)。使用制限がある分効果も抜群で、ここぞというときに状況を打開してくれる強力なものが多かったです。

敵のビジュアルは他の教団の信者であったり、虫や獣であったり。これらのビジュアルも可愛い…というよりキモ可愛い的な感じ。初見だと戦い方が分からなかったりするんですが2回目だともう問題なく対応できますね。謎解き要素はありません。

あ、あと主人公の回避動作が優秀で。敵の攻撃を回避できないストレスというものが無いので、攻撃が来てもとりあえず敵のいないほうに回避すればなんとかなります。これも、とっつきやすい要因の一つとなっていると思います。

このアクションローグライク部分をプレイしてみた感想として、ストレスが全然ないんですよね。攻撃が理不尽に当たらないなんてことも無いし、回避することで割と簡単に敵の攻撃を躱せる。凄くよく出来ています。

もちろんゲーム後半、終盤やボス戦は難しさがありますが、ゲームを投げ出すほどでは無い、「次にやったら倒せるな…」といったレベルの難易度だと個人的には感じたので、夢中になってアクションローグライク出来ました。



カルト教団どうぶつの森ライフシム

さて、アクションローグライクを楽しみ、敵と戦っている間ですが、実はこの間もゲーム内の時間は過ぎていきます。

それはつまりどういうことか。このゲームのもう一つの重要な要素である、カルト教団運営・ライフシムに影響してきます。
このゲームは、アクションローグライクとカルト教団運営を同じ時間軸で行うものであり、あまりに長くローグライク部分を楽しんでいると、自らを教祖と崇める信者たちは、例えばお腹を空かせて苦しんでしまうのです。

このライフシム・教団運営部分ですが、どうぶつの森のようであり、Stardew Valley、牧場物語のようでもある。そんな印象を受けました。

何はともあれ、まずは信者がいないと教団になりません。ダンジョンの中で救出したり、蜘蛛に捕らわれ食べられそうな信者をお金で購入したり(!)と、様々な方法で信者を増やすところから教団運営がスタートします。

金貨で信者を買う、人身売買

仲間になった(連れてこられた)信者は、自分の教団の土地で暮らすことになります。

当然初めは野ざらしの土地。そこで、木を切ったり石を集めたりして様々な建造物を作ることで、教団の設備も充実し、出来ることも広がっていきます。

最初は、食べ物もありません。開始時点で野に生えているベリーを摘めば当面はなんとかなるのですが、早めに自家栽培、自給自足生活を構築しないと供給が追い付かなくなっていきます。
トイレも無いので、早く建てないと教祖自らずっと信者のうんちを掃除し続けないといけません。教祖なのに…。

そのためにも、資源集めや清掃など労働力となる信者を多く集めないといけないのですが、当然信者が増えるほど食料やベッドは必要になる…という繰り返し。信者を養うために信者を増やし、増えた信者の分また作業を行う信者を増やす…。ゲームが進むにつれてどんどん作業は効率的に、自動化していくのですが、そこに至るまでにはなかなか長い道のりなため、教祖も一緒になって働く日々が続きます。

さらに、信者は信仰心というものも持ち合わせています。信仰心がなくなれば、信者は教団から離反してしまいます。衛生状態や空腹、信仰心といったパラメーターを維持し、教団を大きくしていく必要があるのです。

信者の飢えを防ぐのも教祖の仕事

そんな教団運営・ライフシムを行いつつ、主人公は本来の目的である、自分を生贄として処刑した4体の教祖を倒す必要があります。つまりローグライク、ダンジョンに潜ってボスを倒しに行きます。

ダンジョンに潜っている間も時間が経過しているので、信者たちはお腹を空かし、その辺にウンチをして衛生環境が悪くなります。敵を倒しながらも「信者たち、お腹すかせてないかな…」と心配になるようなデザインとなっているのが、このゲーム。

この「ちゃんと信者をケアしないと労働力が減ってしまう損得感情」と、「養うのが信者だからこその守ってあげないといけない気持ち」が、いわゆる牧場運営的なゲーム以上に、養うことへの義務感と必然性を生んでいました。

信者の排泄物掃除、教祖も大変



可愛い信者たちへ沸く「愛着」と、だからこそ心が痛む「強制」そして「演出」

自分を崇拝してくれる、可愛い信者たち。もはや、「Needy Girl Overdose」におけるオタクくんたちのような存在です。自分が超てんちゃんになったような感情。

さらに、このゲームでは信者たちに仕事を指示することが出来ます。彼らは資源を集めたり祈り続けてスキルツリーを進めるためのポイントを貯め続けてくれたりします。

そんな働き者の信者たち。次第に、愛着が沸いてきます。可愛い。
それだけに、ゲームを進めることで発生するカルト的な演出、残酷な演出が加わることで、守りたいけれども倫理的におかしな行動を強制させるという歪みが生じるこのゲームのシステム、非常に心を突き刺すものでした。

カルト教団運営を効率よく進める手段として「教条」というものがあります。これはいわゆる信者へと守らせる教団内の「ルール」です。
また、教条ではありませんが、同じくゲームを進める手段として、教団内で行う「儀式」を定義づけすることも可能です。

教条はゲームを進めると手に入るアイテムを用いて定めていくのですが、定めるルールの内容がかなりえげつない…というか、一般的な倫理観から外れたものであったりします。
さらに一部の儀式には、信者を生贄、つまり信者を殺すようなものもあります。そしてその代わりに、ダンジョン攻略や教団運営が楽になるのです。


異常性を表すルールのひとつが、「カニバリズム」。いわゆる食人です。
教条の一つとして、これを採用することも可能です。

教団運営は何日にも渡りますが、信者は日数が進むほど高齢化し、高齢になると動きが遅くなります。
そしてさらに数日経過すると、寿命で死んでしまいます。
その「死体」も、なんらかの処理を行わないといけません。何も処理しないと、病気の原因となってしまいます。死体は放置できません。

死体を埋葬するためには、資源を消費し埋葬するための穴を掘らないといけません。
しかし資源は貴重、なるべく減らしたくない…。
その時にどうするか。死体を解体するのです。

背に腹は代えられず、信者を解体する行為を行っていましたが、それにより信者の信仰心は下がります。
さすがにヤバい宗教だと、信者たちも目が覚めるといったところでしょうか。

一方で、死体の処理と信仰心の向上、どちらも満たすことが出来る方法があります。
それが、教条として信者の肉を食べることが正当な事であると定めること、です。

これにより、信者たちは喜んで「死んだ信者の肉」で作られた料理を食べ、教条に従ったということで信仰心も上がり、墓地を作る資源もカットすることが出来る上に、飢え問題に対する解決にもなる。
カニバリズム、「実利的には」いいこと尽くしなのです。

ただ、実利を取ればカニバリズムもいいことですが、倫理的にはどうなのかと聞かれると…。
私は悩んだあげく、その教条は採用しませんでした。
食料の安定供給にも苦戦しましたし、手間も増えましたし、死体の処理にも困りましたが、それでよかったと…今は思います。

カルト教団運営ゲームではありますが、その教団を危険な団体にするかどうかは、教条、教団のルールを決めるプレイヤー次第なのです。
これはまるで選択型のアドベンチャーのようでした。自分の決断で、その後の教団や信者の未来が変わる。実利を取るか、倫理を取るか。

そんな教条の決定をどうするかも、このゲームの醍醐味でした。

こんな教条も……

また、儀式というシステムも恐ろしいものでした。
儀式は、実行することで何らかのメリットが生まれたり、行動にバフがかかったりするものです。

このゲームには魚釣り要素もあるんですが、「良い魚が釣れるようになる」バフがかかる、特に問題の無さそうな儀式が存在する一方、信者を犠牲にする儀式も存在します。

信者を生贄にすることで実行可能な儀式。
もちろん、信者が一人減るというデメリット以上にメリットがある儀式となっています、が…。
実利と倫理観の狭間で迷うこととなるでしょう。私はそうでした。
やはり、多少なりとも愛着の沸いた(しかもゆるキャラのような可愛さを持つ)信者を犠牲にする儀式は、ほとんど行えませんでした。
予期せず行ってしまったこともありますが、そのときには「一線を越えてしまった」という焦りにも似た後悔がありました。

そう、一緒に暮らしてきた信者への愛着が生まれるからこその迷いが、このゲームには存在します。

生贄の対象としているのは、喋り、笑い、泣き、一緒に暮らす、名前を持った、自分の信者です。だからこそ、殺すことへの抵抗、食料として食べることへの抵抗感が当然のように生まれます。

可愛い、楽しい、信者たち

そしてそれは言い換えれば、たとえ自分の信者であれど「家畜と同じ扱いをすることが出来る」ということです。

動物の肉を食べることは我々が常日頃から行っていることであり、そこには命を失った動物がいます。普段は正直、そこまで考えて食事を行うことはありませんが、しかしそれは忘れてはいけない、現実です。

そんな現実を、ゲームの中で正面から見せつけてくる上に、「教団で決められているルールだから」という理不尽と捉えられる根拠によって失われる命。さらにそれを指示したのが、紛れもないプレイヤー自身であるということ。信者を殺すかどうかは、誰のせいでもなく、プレイヤーの選択のせいなのです。

どこまでも自由。倫理の根本のルールさえ覆す。その、深すぎる闇も体験することが出来るのがこのゲームであり、教団をどこまで徹底的に非人道的なカルト教団にするかも、全てが自由。

こんなに可愛い、こんなに怖いゲームはなかなかありませんでした。
そして、信者への愛着があるからこそ強い印象を受けるイベントも発生するため、是非クリアまで体験してみてほしいです。



「可愛さ」という皮を被った危険なゲーム

このゲーム、いわゆるサクサクしたアクションやスキルツリー的な部分も面白いのですが、個人的に一番食らってしまったのは「見た目で印象が変わってしまう危うさ」です。

信教の自由はありますし、心から信じることが出来る対象と出会うことで、心の拠り所とすることもできます。しかし人に直接的・間接的問わず迷惑や危害を加えるような宗教は制限されて然るべきだと思います。
それはもちろん、その宗教の信者個人個人に対してももそうです。金銭面、健康面、そして倫理面。一般の社会から逸脱することは、あってはならないと考えます。
私自身は特に何か宗教活動を行っているわけではありませんが、今思えば他者からの宗教活動で、とても辛いわけでは無いけど色々と悩まされた時期もあったなあと、思い出します。

このゲームを通して、2つ思ったことがあります。
1つは、キャラクターのビジュアルと異常な教条の(非)親和性。

先ほどもご紹介した通り、このゲームのキャラクターは本当に可愛い。ゆるキャラみたい。そして、表情も豊か。ニコニコしている姿は見ていて本当に幸せになります。
だからこそ、異常な教条…特に、信者を犠牲・生贄にするような儀式を行った際の、信者の「満面の笑み」が、とてつもなく怖いのです。

大学生の頃、学食に「大学が認可していない学外サークルの勧誘に注意してください」という、いわゆるマルチ商法の勧誘に対する注意喚起の張り紙がされていたことを思い出しました。
「そういうのに引っかかった人がいるらしい」なんて話を聞くこともありましたし、ある程度の警戒心を持ち学生生活を送っていました。とはいえ、マルチ商法にはハマらないある程度の自信はあったんです。なぜなら、そこにはお金を搾取しようとする悪意が見え隠れから。

昔から人の顔色をうかがって生きてきましたし、結構人付き合いは警戒から入るほうだったりしたので、ぐいぐい仲良くなろうとしてくる人には一歩引いてしまうところもあったり。そのせいで友達も少ないですが…。

とは言えそんな性格も相まって、なんとなく人の言語的、非言語的なコミュニケーションには敏感になっていたと思います。だからこそ、違和感のあるコミュニケーションは自動的に警戒できてきたと思います。

話を戻しますが、ではこのゲームの信者たちはどうなのか。
倫理的に外れた儀式を行ったとき、ぞっとしました。誰もが満面の笑み、疑いを持たない幸せそうな表情だったのです。自分たちと同じ信者が、儀式という名の下にその命を絶たれても。なんの悪意も疑いも無くニコニコとしている。なぜならそういう「ルール」があるから。

生贄となった信者の肉と骨を前に笑顔の信者たち

その異常性に鳥肌が立つのです。これが、可愛いキャラクターだからこそのギャップによる怖さがありました。

先のマルチ商法勧誘は、悪意があります。一方で、ここの教条としてルールを定められ、それに従う信者たちには、悪意がありません。
それが普通のことであり、疑うことすらないただの常識。だからこそ満面の笑みであり、だからこそ悪意が無く、より一層怖いのです。

信者の命が犠牲になっても、それはルールに従えたということだから、正しいこと。そんな雰囲気を感じられるような違和感と恐怖を、可愛いキャラクターの狂気という形で受け取りました。可愛いからこそ、異常な行動が似合わない。似合わないことをするからこそ、背筋が凍る思いでした。

そして2つ目が、その異常性に対する「慣れ」です。
ショッキングだった生贄行為の他、例えば先ほどの、「死んだ信者に対する行動」を行った際のことです。

私は先ほど書いた通り、カニバリズムは選ばなかったものの死体処理に困って「死体を解体」していました。
解体を行うと、信者の信仰心が低下します。
しかし信仰心は簡単に上げられるので特に気にせず、多少の罪悪感を抱えつつ死体の解体を続けていました。

不思議なもので、この行動も段々慣れてくるんですよね。
そもそもゲームで人を撃つ、刀で斬るという行為は過去何千回も行ってきています。いちいち罪悪感は感じていませんでした…が、今回の死体解体では罪悪感を感じてしまいました。
それは少なくとも、同じ人間(のようなゆるキャラ)であり、そのキャラが「生きて生活してきた過程」を認識していたからだと思います。心に少し闇が生まれるような感覚になりながら解体をする。恐ろしい光景です。
そしてその行為に、慣れてしまう。1人目、2人目、3人目と同じ作業を行うことで、罪悪感が薄れていくのを感じました。

そのままゲームを進めて終盤になると、新たな死体処理方法が見つかり、もう解体する必要はなくなりました。
その瞬間、「あれ? 今まで俺結構ヤバいことやってたな…?」とふと死体の解体という行為を振り返ってしまいました。そこで感じたのが、段々と罪悪感が薄れていること、そして自身の教団を改めて俯瞰したときに認識した、教団の異常性です。

終盤にもなればゲーム進行をスムーズに行うため様々な教条が定められています。気づけば私の教団は、雑草を食すること、信者と結婚できること、教団内を巡回し各信者の信仰心を管理する信仰管理人を定めることを、教条としていました…。
このゲームの雰囲気に慣れて、このゲームの世界にどっぷりと浸かってしまていたからこそ、普段の倫理観ではありえない、異常な倫理性のルールに慣れてしまい、違和感を違和感と認識していない状態になっていたのです。

可愛いキャラクターという皮を被って、とんでもない異常なことをいつの間にか行わせてくるこのゲームの恐ろしさを体験した瞬間でした。
まさに、気付かないうちにカルトにハマっていたというのは、こういう状態のことではないか。ちょっと、心が冷えました。

と同時に、こんなに可愛いビジュアルのゲームで、こんなに体験をさせられたことへの驚きがありました。なんて恐ろしく、なんて傑作なゲームなんだと、実感したわけです。



バグというマイナスを超える魅力を感じた

私はsteamにてプレイしたのですが、何度かバグに遭遇しました。動けなくなるバグ、モーションが止まらないバグ、敵が出てこなくて先のマップに進めないバグ。体感ですが、教団の信者数が増えるほどバグの発生率が高くなった気がします。

合計で発生したバグは5回程度でしょうか。ダンジョンで発生した際は仕方ないので強制的にダンジョンから脱出(獲得アイテム減のペナルティあり)、また教団のマップ内でバグが発生した際は、メニューが開ければ即セーブ&タイトルに戻りロード。このような対処を行っていました。

ざっとネットを見た限りですが、コンシューマ版のほうがバグが多そうですね。個人的には「まあ、インディーゲームだしこのくらいはあるかな?」という印象でした。さすがにダンジョンを10分くらい攻略し、もう少しでボス戦というところでバグ発生&リスタートしなければならなかったときはうんざりしましたが、何度も続いたわけではなかったので、3回目にして先に進むことが出来ました。

でもですね、少し考えたんですが、いくら短めのゲーム(自分は12時間くらいでクリア)でも、普通バグで進行不能になったら評価は下がるしなんならゲームをやめてしまうことだって十分にあるわけですよ。

ところが、このゲーム。再現性の高いバグに遭遇したとしても、続けて遊んじゃったんですよね。おかげで2回連続で同じバグにハマったわけですが、それでも続けちゃう。
そのくらい面白かったんです。バグのマイナスポイントを、面白さのプラスポイントが圧倒的に上回っているから、止めようという気にならなかった。
こんなゲームは初めてでした。ある意味でバグ以外の「不満点」が無かったんです。

ちなみにsteam版ですが、こまめにアップデートがかかっており私が引っかかったバグ(蜘蛛のステージで本来出現するはずの雑魚敵が出現せずゲームが進まない)というものも修正されているようです。
1日2度のアップデートが入ったりしていたので、おそらくこのペースであればPC/コンシューマ問わず早々に快適にプレイできるようになるのではないでしょうか。

2022年8月16日時点でこまめにアップデートされています。



終わりに:インディーならではのエッジの効いたテーマで体験する「幸せ」

アクション部分はよくありがちなシステムでありつつも、テーマとしてカルト教団運営があることでかなりの異質性を持ったこのゲーム。異様な可愛さのキャラクターの見た目に反し、えげつない内容も選択可能な、タガの外れた自由さ。

教団の土地は装飾が可能です

普段、比較的物語性の強いゲームにどうしても引き寄せられがちな趣向を持っているのですが、本作はシステム面やビジュアルがしっかりと統一性を持ち、ユーザーにとって(バグ以外)ストレスの無い作りになっている圧倒的な魅力から、物語性がそこまで強くなくとも、夢中で遊んでしまいました。

カルト教団がテーマということで、現在の日本では手放しで称賛していいものかどうかひっかかるところは多分にありますが、ゲームはゲームという独立した存在であり、個人的には創作が否定されるのは違うのかなと思い今回記事を書いています。

特にインディーゲームだからこそ取り扱える題材だと思いますし、多少のリスクを背負った作品だからこそのエッジの効いた魅力が生まれているように感じます。

その、取り扱うテーマだけが気がかりではありますが、ゲームをゲームとして捉えられる人には是非ともお勧めしたいですね。アクション部分も快適で、インディーゲームとしてバランス良くクオリティの高い作品でした。

リリース後2、3日はバグのせいで多少ブレーキがかかったところもありますが、修正も入ってきているので、ぜひ、カルト教団運営を通して、実利と倫理の間で悩み、いつの間にか目も当てられない危険な集団が出来上がってしまっているという、自己の感覚を疑ってしまいそうな体験をしてみるのはいかがでしょうか。

ゲームならではの非現実、非現実で良かったと思わせられる世界を感じられるとともに、可愛いキャラクターに倫理観を乱される感覚を味わえるでしょうし、そしてきっと、プレイした後は何とも言えない「幸せ」な気持ちになると思います。

何があってもどんな教団でもみんな幸せ!絶対に幸せ!


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