【社長インタビュー】ユースキン製薬の工場が富山にある理由
こんにちは!
ユースキン公式noteにようこそ。
2024年最初の記事です!
改めてnote担当者の自己紹介をします。
私は、2023年5月に入社しました。
入社後は、企画部に配属され、広報宣伝活動を担うコミュニケーショングループというところで仕事をしています。
2023年8月に公式noteを立ち上げ、当社の経営理念にある“肌と心と社会にうるおいを提供する”ための活動の想いや裏側を筆者目線で綴っています。
さて今回の記事は、ユースキン製薬の生産拠点である工場についてのお話です。
当社の工場は、自然豊かな富山県富山市八尾町(やつおまち)というところにあります。ユースキン製薬の工場としては、全国でもここ富山だけになります。そもそも、ユースキン製薬の工場が富山にあることを知らない人も多いかと思います。
実は、最初から富山に工場があったわけではありません。もともとは、川崎の本社に近い境町工場(川崎市川崎区境町)からはじまりました。
そこから横浜工場(横浜市鶴見区)への移転を経て、2016年に富山市八尾町に全面移転をしました。
本社が川崎にあるのに、なぜ縁もゆかりもない富山に工場を移転したのでしょうか?
今回は弊社社長の野渡和義に、工場移転のきっかけや富山との出会い、そしてこれからの想いなどを聞いてみました。
そもそもなぜ工場を移転しようと思ったのか?
私が入社した時(2023年5月)には、すでに当たり前のように富山に工場がありました。この大きな工場が横浜から富山へ全面移転したことを聞き、これだけの規模の工場をなぜ移転したのか?なぜ富山なのか?など、いくつかの疑問がありました。
そのあたりを中心に野渡社長に聞いてみたいと思います。
―なぜこれだけの工場を全面移転しようと思ったのですか?
野渡社長:まず移転しようと思ったきっかけは、「横浜工場が手狭になったこと」と「家賃の負担が大きかったこと」です。そして、さらに言うと東日本大震災を経験して、「震災への備えが急務」だったことも大きかったかもしれません。
―横浜工場が手狭になり、家賃負担も大きかったとのことですが、詳しく聞かせてください。
野渡社長:横浜工場は、横浜市鶴見区の準工業地域にあったのだけれど、土地面積3,100㎡ほどの賃貸物件でした。最初は本社からも近くて良かったのですが、年々生産量が増えていくにつれ、当然のことながら手狭になってきてしまった。工場の一部を2階建てにして、なんとかしのいできたものの、家賃が高い土地であったため、負担がだんだんと大きくなっていった。20年前から関東近郊(茨城、栃木、群馬、神奈川等)で土地を探し始めていたのだけど、高くて手が出なかった。でもいよいよ本格的に移転を検討するしかないと思いました。
―そうなんですね。そしてさらに「震災への備えのため」とのことですが・・・
野渡社長:それも大きな要因でしたね。2011年3月11日に東日本大震災がありました。あの時、本当に地震や津波の怖さを知って、あれ以来BCP(事業継続計画)といって、災害がきても事業を継続、復旧する計画をしっかり立てなければならないと思いました。横浜工場は鶴見川の近くにあったので、もし京浜地区に大地震が起きたら、津波などの被害に遭う可能性がある場所。いくら自然災害とはいえ会社や従業員に何かあったら私の責任ですし、とにかく未然に防ぐために何とかしないと、思いました。
―たしかに、近年自然災害の恐ろしさを目の当たりにしていますよね。いつ起こるかわからない災害に対しては、備えを十分に行い事業の継続や従業員の安全を守ることも、会社として大切な取り組みですね。
移転先を縁もゆかりもない富山県に決めた理由は?
―それにしても、あれだけの設備を移転するとなると、大変な決断や勇気が必要だったと思います。迷いはなかったのでしょうか?
野渡社長:移転先をどこにしようか、と悩むことはありましたが、先ほど話した理由もあって工場移転はしなければならないと思いました。そんなことを考えているときに、富山県の企業立地課から一通の封書(DM)が届いて、「富山市八尾町の富山八尾中核工業団地に工場を建てませんか?」という内容だった。それが届いたのが、2011年12月頃だったかな。そのようなDMは日本全国から頻繁に届くのですが、その時は「富山」という文字を目にして、なぜか「ピン」ときました。
―「ピン」ときたとは?
野渡社長:まず当社の既存取引先(製品の原料やプラスチック容器、そしてパッケージなどの紙資材などを仕入れているサプライヤー)が富山県にいくつかあったので、身近な存在でした。移転を検討しているときに計算してみたら、富山県の企業から原材料の60%を仕入れていることがわかりました。サプライヤーが近いと、何かと便利ですよね。
さらには、薬といえば「富山」だよね。昔から「越中富山の薬売り」として知られているけど、富山は製薬や売薬が全国で1、2位を争うほど産業の中心でもあるから、政策的にも優遇されているのではないかと思いました。
そして、富山は自然災害が少ないという認識があり、地震や台風が少ないのです。前々から、なんとなく知っていましたが、おそらく立山連峰が守ってくれているのだと思います。
―移転には相当な費用がかかると思いますが、そのあたりはどうだったのでしょうか?
野渡社長:DMが来たのが「中核工業団地」といって国や県、市の優遇策があって節税につながるため、かなり魅力的でした。これまで探していた関東エリアよりも土地も安く、決め手の後押しになった。
―まさに、奇跡のDMだったのですね。これも出会いですね!
野渡社長:そうですね。色々と考えているときに、そういう出会いがあるものですね。我々の悩みが一気に解決できると思いました。その時、偶然は必然なんだな、と。
―ただ、富山は本社からも遠いですよね。距離的に躊躇はしなかったのでしょうか?
野渡社長:それが、富山は案外近いんだよね。飛行機だと羽田から富山までは約1時間。そして、本社から羽田空港までと、富山空港から八尾町もそれぞれ車で20分くらい。当時(2012年)は、飛行機が1日に6便ありましたしね(今は3便に減便)。
―北陸新幹線もありますしね。
野渡社長:移転しようと思った2011年は、北陸新幹線のことは全く頭になかった。2014年、北陸新幹線の開業と富山工場の移転がたまたま重なりました。その影響でテレビや新聞の取材が増えちゃってね(笑)
でも今では北陸新幹線もよく利用しています。東京から2時間くらいで行くことができるので、とても便利ですよね。
―2011年の12月にDMが届いてから、最終的に決断したのはいつ頃ですか?
野渡社長:DMが届いてから約半年後(2012年5月)に決断した。半年の間に、社内で色々な問題を話し合って、最終的にこの出会いは間違いないと感じ決断した。
移転に際して直面した課題や苦労とは?
―移転を決断してからも順調だったのでしょうか?
野渡社長:いや、もちろんいくつもの課題や困難がありました。特にヒトの問題。横浜工場を残さず、丸ごと富山に移転するから、横浜工場で働いていた従業員が富山に来てくれるかどうかが心配だった。おそらく退職する人もいるかなと思い、移転の3年前にあたる2012年9月には、移転について全従業員に伝えました。残念なことに、半数以上は退職していってしまった。それでも、決断したからには仕方ないことなので、しっかりと受け止めることにした。
―半数も退職すると、従業員が不足して工場を稼働することができないですよね?
野渡社長:工場の着工前から、富山での採用活動も始めました。製造現場の募集だから技術職になりますし、場合によっては資格も必要だからそう簡単には採用できなくて、最初のうちは苦労した。
―苦労しながらも従業員の採用はできたのですか?
野渡社長:なんとか。社員だけではなくて、パート社員の募集もかけた。富山県は共働き率が高いし、条件がよければうちに来てくれるかなと思ったけれど、富山における当社の知名度の低さもあったのか、やはり応募はとても少なかった。それでも何とか工場を稼働できる人材を確保することができた。その時はホッとしました。
―そして、2014年に念願の富山工場が完成します。その時のことを教えてください。
野渡社長:土地面積は横浜工場の11倍の34,000㎡と、これまでとは比較にならないくらい広く環境の良い工場が出来たと思っている。ただ、すべてのラインの移設までは、様々な試験をクリアしなければならず、そこから約1年は横浜工場を動かしつつ、富山工場での準備が始まった。富山工場では社員6名+ラインスタッフ3名の少人数で受け入れ準備を進めた。そのメンバーを第一陣、そして残りのメンバーを第二陣として、生産を続けながら横浜工場からの移転の準備を進めることとなった。
―工場が完成しても、すぐに完全移転というわけではなかったのですね。
野渡社長:まず医薬品工場として稼働させるための準備を行い公的な審査をクリアしないといけなかったから、それに1年かかった。また、各種機械を横浜工場から運び込む準備もあったので、当時の第一陣のスタッフには、相当大変な思いをさせたと思っている。
―結局、完全移転はいつだったのでしょうか?
野渡社長:横浜工場の最終稼働日が2015年の12月15日だったので、富山工場が出来てから約1年経った頃、年明けの2016年1月初旬に全従業員が集まって、やっと本格稼働となったわけ。その時はとても感慨深かった。社員は本当によく頑張ってくれたと感謝している。
結果、富山に工場を移転してどうだったのか?
―ここまで色々お話を聞いてきて、様々な課題や苦労を伴いながらの移転だったのですね。結果、富山に移転してよかったのか、そのあたりのお話を聞かせてください。
野渡社長:なんといっても富山の八尾町という歴史ある街に工場を建てられたことはとてもよかったなとしみじみ思っています。
―八尾町の歴史にはどんなものがあるのですか?
野渡社長:毎年「越中八尾 おわら風の盆」という日本を代表する祭りがあって、300年以上続いている。伝統を受け継いでいますよね。踊りの所作というか、指先まですごく美しくて魅了されます。美しいと言えば自然もです。八尾町の自然もとても素晴らしいですね。
―ぜひその素晴らしさを教えてください!
野渡社長:なんといっても立山連峰が素晴らしい。富山工場からも眺めることができるのだけど、設計時に立山連峰の方向に向けてカフェテリアを作るように計画しました。カフェテリアの窓を大きくして、窓の縁を額縁に見立てて立山連峰が絵画のよう眺められるようにしたかった。
―美しい景色のもとで働けることも従業員にとっての魅力の1つですね。
野渡社長:以前は横浜の準工業地域にあって、美しい自然とは無縁だった。窓もあまりなかったので。それが今では美しい立山連峰を見ながら仕事ができる。見るだけで心も穏やかになりますね。従業員が安心して働けるポイントにもなっていると思う。実際、「働く場所の景色が綺麗だと癒しになる」といった従業員の声もあります。冬は白鳥の飛来も素晴らしい。
―富山の気候に関してはどうですか?
野渡社長:年間通して雨の日が多いですね。しいて言うなら、雪が降ることですね。横浜工場から転勤してくれた従業員は、雪に慣れていないため、慣れるまで大変だったと思います。
―私も雪に慣れていないです。雪が降った時はすごく焦りますね。
野渡社長:雪が降ると通勤や移動が不便になりますね。富山工場の仕事は、まず雪かきからスタートする日もあります。最近は雪が少なくなってきたみたいですが、年に数回大雪のときがあり、そのような日は通勤に何時間もかかる時があります。
―移転を決断した社長からすると、従業員が安心して働けるかどうかも考えなければなりませんよね。
野渡社長:もちろん。いくら会社の決定とはいえ、従業員の働く環境や暮らしも大事にしたい。工場だけに限らず全従業員に安心して働いてもらいたいと、いつも思っている。私も、月に2回は富山工場に足を運び、従業員とコミュニケーションを取っているが、本当はもっと富山に行きたいと思っている。富山工場の従業員からは「広くなり、場内が明るくなった。」「社員の雰囲気も明るくなった。」「設備面がよくなり働きやすくなった」などと言ってもらうことが増え、それが何よりだと思っている。竣工から十年たって思うけど、本当に、横浜から富山に越してくれた従業員や、現地採用で頑張ってくれた従業員には感謝したい。
―結果、富山に移転してよかったですか?
野渡社長:ハード面では、工場の移転は大正解だったが、結果的に富山の大自然の中に工場を移したことで、人や心といったソフトな面でも充実しつつある。私は、それが一番良かったことだと思っている。結局、働く環境が従業員の心を豊かにするし、従業員の心が豊かになれば、製品づくりへの愛情もより一層強くなると思う。豊かな心で愛情をもった製品づくりをすることが、お客様の喜びにつながると信じて、これからも美しい富山の環境のもと、製品づくりをしていきたいと思っている。そして、富山という土地への恩返しも、様々な形で行っていきたいと思っている。これからも、富山のために、富山とともに歩んでいきたいと思う。
最後に、このたびの能登半島地震により、お亡くなりになられた方々に謹んでお悔みを申し上げるとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。当社工場の被害は、最小限にとどまり、現在通常どおり稼働をおこなっています。今後、できる限り支援をおこなっていこうと考えています。がんばろう北陸。