美しき花々と血の香り
初めての一人旅はワルシャワから始まった。ポーランドとは「平原の国」を指す。徐々に高度を下げる機窓から田園風景が眼に映る。それは彼方まで続いていき、どこまでも深く、立体的な緑色は途方もなく遠い場所へと身が運ばれたことを僕に実感させた。
「洗練された熱狂」。僕はEUROをそう評したい。欧州の澄んだ気配。その中で繰り広げられる情熱の発露。画面越しに映るEUROを食い入るように眺めながら、実際の光景を一度はこの眼に焼きつけたいと願う自分がいた。二〇一二年の夏。その願いを叶える時がきた。
時間を持て余していた僕は、開門に合わせてスタジアムへと歩みを進めた。ワルシャワ国立競技場。その紅白のファサートが僕を出迎えてくれる。開幕戦の舞台が眼の前にある。やることは何もない。ただ、瞳孔と心に毛穴のようなものがあるとすれば、それを目一杯に広げた。そして、大きく息を吸った。
徐々に観客席が埋まっていく。流れた二時間は確かに二時間分の重みを持ち合わせていた。しかし、それは束の間のようにも感じられる。舞台は整った。赤い観客席はさらに赤く染まり、白が華を添える。ポーランド国歌『ドンブロフスキのマズルカ』が場内に流れ始める。こだまする観客の声によって、僕の身体は震えた。マフラーを掲げ、腹の底から湧き上がる歌声が響く。声と声とが共鳴する。視界が揺れる。僕は生まれて初めて「群衆」というものを肌で感じた。
試合の熱狂も忘れられない。ペナルティエリア外からネットの隅に突き刺したブワシュチコフスキのゴールも素晴らしかった。しかし、幾万と咲いた紅白の花びら。その鮮やかでありながら、歴史と伝統の重みを感じさせる高貴な光景が記憶から消え去ることはない。
「お前は何をしているんだ?」と白いヘルメットを被った警官が僕に尋ねてきた。
「宿に向かっている」と僕は答える。
「違う、『こんなところ』で何をしているんだ?」と彼は再び口にした。
周囲に視線を配ると、試合後とは思えないほどの広い空間に僕はいた。四方に人々が散っていく。警官隊が周囲を取り囲む。
「ここは危ないぞ」と警官が僕に教えてくれる。
試合後、ポーランドとロシアのサポーター間で暴動が起こっていた。その中心に僕はいる。殺気立った気配を僕は呑み込み、暗闇へと紛れた。
美しき花々と血の香り。ポーランドの地で浴びた刺激を僕は忘れない。