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小説が書けない男の日記(2023.3.5〜3.11)


3月5日(日)
 疲れはあんまり抜けておらず、というのはおととが一晩中唸っていて眠れなかった、しんどい。
 午前中は今日も妻とあにちゃんがお出かけで私とおととが留守番。買い物に行ってみようかと思って着替えたり洗顔したりしている間におととが眠ってしまったので断念。少しの時間、ポケモンGOと読書をし、お昼のスープを作った。オリーブオイルはまだ扱いが難しくてよくわからない味のかきたまほうれん草スープができた。妻とあにちゃんがパンを買ってきてくれた。幸せ。
 午後にあにちゃんとお菓子、というか蒸しパンを一緒に作ってみた。YouTubeで見たレシピを実践。細かいところをちゃんと見ていなかったけれど、美味しくできた。
 こういう料理というかお菓子作りに興味が湧いてきたけれど、飽きっぽい性格の私はどれくらい続けられるだろうか。

 『孤島の飛来人』を読み終えて、ローラン・ピネ『HHhH』を久しぶりに読みたい気になって二階から持ってきたけれど、ちょっとまだ心に余裕がなくて、ちゃんと向き合えない気がして、金曜日に買ったJoshua Higuchi『ベテルギウス」を手に取った。


3月6日(月)
 月曜日とは思えぬ疲労が心身にのしかかっていた。大きめの仕事はあらかた終わったが、これから4月一杯にかけて中程度のあれこれが襲いかかってくるのだった。
 『ベテルギウス』、SF小説という体にはなっているが、小説にしてはあまりにも描写がなくて優れているとは言いがたいものの、ここに書かれている事態やらアイデアなんかはおもしろくて、なにやら不思議な読書になっている。100ページほどなので明日にも読み終えてしまいそうだ。


3月7日(火)
 春めいてきたことを感じる温かさだった。
 『ベテルギウス』を読み終えた。ユダヤ人が日本人の本当の祖先で、ユダヤ語?の名残で日本の童歌ができている、みたいな説はなかなか興味深かった。散々次の本を悩んだ挙げ句、やはりSFめいているようだったので、ピーター・ワッツ『ブラインド・サイト』が手に取られた。


3月8日(水)
 昨日以上に春めいていて、予想最高気温は20℃を超えていた。自転車の登園をしただけで目は潤むばかりだった。
 花粉症の薬と、目のかゆみとで頭がぼうっとし、なかなかにしんどい一日だった。とはいえ昼休みは久しぶりに散歩しながらポケ活。午後も引き続き花粉症に悩まされたのは言うまでもないのだった。
 早めに退勤して仙台駅前へ。妻、母、義母へのホワイトデー。いろいろ買う前にホウオウのレイドアワー。2匹逃してしまった。距離が近くて投げづらかった。丸善に寄るも今本をあまり読めていない状況で買うことに抵抗があったので何も買わず。1冊が高いとそれだけで今月の本予算を使い切ってしまうことにも抵抗がある。
 ホワイトデーを買って、帰りに家の近くのスーパーで10キロの米を買って担いで帰った。あにちゃんやおととより、軽いのだ。


3月9日(木)
 朝に本棚を眺めていたら島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』と目が合って手に取られ、少しだけページをめくったら読みたい気持ちがむくむくと湧いてきた。仕事を終えて夜にもりもりと読み進められた。『ブラインド・サイト』は思ったより集中できていない。最近またポケモンGOの比重が重くなっていて、読書熱が少し鎮まり気味なのだった。


3月10日(金)
 仕事でわりと大きなイベントで、対面とリアルタイムオンラインのハイブリッドで行われた。昼すぎからで、開始早々に他の地域も含めてネットワークシステムに不具合が生じたらしく無線ネットワークが使えなくなり、なんとか有線LANを差し込んで進めた。ほんとに冷や汗ものだった。
 ぐったり疲れて、帰りに缶のハイボールやらするめやらが多く買われたが、果たしてアルコールを摂取するだろうか。されなかった。


3月11日(土)
 おととの風邪もよくなってきたので久しぶりに4人で出かけた。バスに乗って西公園へ。よく晴れていて暑いくらいだった。あにちゃんも4人で公園に来れて嬉しそうだった。1時間半くらい遊んで、近くのパン屋でお昼ご飯を買い、再びバスに乗った。メディアテーク前で待っていると、ファイブスター・ウエディングのプランナーの女性が客と思われる夫婦を連れて歩いてきて、どうもそれは私と妻の結婚式を担当してくれたプランナーさんじゃないだろうか、いやでも4年前のことで、いまいち自身がなかったので特に話しかけたりはしなかった。妻はメディアテークでやっていた写真展を少しだけ見に行っていた。
 帰ってきてパンを食べ、1時間ほど昼寝。夜は初めて缶のハイボールを飲んだ。美味しい!とはならなかったけど美味しくないわけではなかった。一缶で充分酔いが回った。そういえばお酒を飲んだのは2ヶ月ぶりとかかもしれない。でもそれくらいでよい。

 読書というものは、すぐに役に立つものではないし、毎日の仕事を直接助けてくれるものではないかもしれない。でもそれでも、読書という行為には価値がある。
 人は本を読みながら、いつでも、頭の片隅で違うことを思い出している。江戸時代の本を読んでも、遠いアメリカの話を読んでも、いつでも自分の身近なことをとおして、そこに書いてあることを理解しようとしている。
 本を読むということは、現実逃避ではなく、身の回りのことを改めて考えるということだ。自分のよく知る人のことを考え、忘れていた人のことを思い出すということだ。
 世の中にはわからないことや不条理なことが多々あるけれど、そういうときは、ただただ、長い時間をかけて考えるしかない。思い出すしかない。
 本はその時間を与えてくれる。ぼくたちに不足している語彙や文脈を補い、それらを暗い闇を照らすランプとして、日々の慌ただしい暮らしの中で忘れていたことをたくさん思い出させてくれる。

島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』(新潮社)pp. 111-112

 東日本大震災から12年だった。12年。21歳になる年の20歳のとき。地震が起きてから1ヶ月くらいの期間のことは、思い返すと覚えていることが案外多い。村上春樹『海辺のカフカ』や有川浩『ストーリー・セラー』を読んでいた。原付の給油待ちの長蛇の列に数時間並んで。結局尿意に負けたこと、並んでいる間、ずっと本を読んでいたこと。夜に自転車を走らせて遠くの小学校のプールに水をもらいにいったこと。母と二人で灯油のポリタンクを持って給水車に並んだこと。充電の切れた携帯をもって40分くらい歩いて駅の近くまでいって携帯ショップで充電したこと。風呂に1ヶ月入らなかったこと、確か3月31日に竜泉寺の湯に行った。もちろん、地震の日のこと。
 12年というと結構長い期間だとも思うし、意外と最近というか、自分の中身が12年前からそれほど変わっていないと自分では感じているからかもしれないが、わりと近くに感じる。自身を取り巻く環境は激変しているというのに。当時は自分が結婚して子どもが生まれるなんて微塵も考えていやしなかった。

 いずれにせよ、これからもあの日々のことはしばらくは忘れないだろうし、まさか自分の身にこんな歴史的なことが起こるとは、という驚き、そして、自分ははたして「被災者」なのか、という問い。何も失っていないし誰も亡くしていない、だけど地震に遭い、それなりに大変な日々を過ごした、そんな自分は「被災者」なのか。
 この思いはいつか小説にしてみたいと思う。書けるかは分からないけれど。


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