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小説が書けない男の日記 2023.1.1~1.7


【読書の日記】
 2023年1月1日(日)~1月7日(土)


1月1日(日)
 約1ヶ月半ぶりくらいに日記を再開する。昨秋に手足口病にかかって日記の更新が滞ったあたりから、モチベーションが戻らず中座してしまった。1年くらいは続いたものの、だんだんと低下していった。そして億劫になってしまった。
 新年になるのを機に、一日10分でもいいから、こうしてポメラに向かうことにした。短くてもいいから、何か書く。その日にあった出来事を書いてもいいし、書かなくてもいい。変な話、何を書いてもいい。ただし何かは書く。長文である必要もない。
 過ぎ去る日々を記録する、というのは大事なことだと思うけれど、一日経つだけで結構忘れてしまったりする。
 だから毎晩こうしてポメラに向かい、一日を朝から思い返してみる。何か書き残したいな、と思ったことを書く。
 やってみよう。

 今年は鈍器本を読む年にすると決意して迎えた。それで、昨日からウィリアム・フォークナー『土にまみれた旗』を読んでいる。初フォークナー。積まれた作品は何冊かある。『響きと怒り』や『八月の光』などなど。
 鈍器本の定義は分かれないけれど、この本は単行本で600ページくらいはある。見た目も重厚で、どちらかというと殴られたくはない。充分に鈍器本と言えるだろう。新年1冊目の候補者が無数にいたが、冒頭パラパラをして4冊目くらいに手に取られ、手に取られ続けることになった。今年は何冊読む、とかそういうのを気にしないようにしたい。

 彼らはしばらくのあいだ、暖炉の明かりの中で静かに座っていた。炉の炎が音を立てて跳ね、火花は激しく渦巻く羽毛のようになって煙突を舞いのぼった。そしてベイヤード・サートリスの短い生涯が、彼らの共有する記憶と苦しみの暗い平原を流星のごとくよぎり、その地を音のない雷のようなまばゆい一瞬の光で照らし、一種の輝きを残して消えていったのだった。

ウィリアム・フォークナー『土にまみれた旗』(諏訪部浩一訳、河出書房新社)p. 29

 
 かっこいい。


1月2日(月)
 4人で私の実家へ。同じ市内とはいえ、雪の降り方が全然違った。晴れているのに雪がキラキラと舞い続けていた。おととを両親に任せてあにちゃんと妻と3人で散歩に行き、誰も居ない公園でアスレチックを楽しんだ。
 実家に置きっぱなしだった本を持ち帰る。ジョジョの1部~3部、長谷敏司、植本一子、ローラン・ピネ、小川哲。すでに読んだ本たちだが、手元にあってほしい。長谷敏司やピネは読んでから5年以上経っているから、再読してもいいかもしれない。特に『HHhH』は大傑作だから、また読みたくなっている。
 年末年始の休みが明日で終わってしまう。絶望。

1月3日(火)
 4人で薬師堂に初詣。お祈りをした後、おみくじを引いた。私と妻が末吉であにちゃんが小吉だった。仕事を熱心にしなさい、みたいなことが書いてあり複雑な気持ちだった。
 その後電車でヨドバシカメラへ。先月のボーナスが出たら2階用のコードレスの掃除機を買おうと妻と話していてそれで見に行ったのだった。思ったよりも高くて、店員さんに値切りをお願いしたがもともとが9万円くらいするやつが6万円になっていたのでさらに、というのは難しそうだった。3万円くらいで買えるかと思いきやなかなか良さそうなのが見つからなかった。妻が職場で使っているコードレスの掃除機はフィルタが付いていないようで、水洗いの手間が大変面倒だということで、フィルタがあるものを探していたのだった。結局買わず、ネットショップで探してみることになった。
 終わった後、あにちゃんが眠くて抱っこマンになったので、おととを妻がおんぶしてあにちゃんをベビーカーに。そのままスタバに行ってコーヒーとワッフルを買った。あにちゃんはワッフルを食べて美味しすぎたのか眠気がぶっ飛んだようだった。久しぶりに飲んだカフェミストはたいそう美味しかった。

 フォークナー、第一部が静かに終わった。文章が詰め込みすぎのようにも感じるが練られていて、一つ一つに込められたフォークナーの熱量が伝わってくるようだった。

 明日から仕事再開。レシラムのレイドアワーに参戦したいができるだろうか?

1月4日(水)
 仕事はじめ。今日はあにちゃん保育園お休み。なので朝から出勤。1月は繁忙期最中のためやることが途切れない。これが4月いっぱいくらいまで続く。これをかれこれ8年くらい続けているから、なんというか諦念。坦々と、粛々と、こなすしかない。
 レシラムレイドアワー諦めた。1戦だけはできた。
 フォークナー、がっつり読む時間が欲しい。電車に揺られる十数分では数ページしか進まない。ミス・ジェニーがなかなかに強烈な婆さんである。


1月5日(木)
 13時に始まった会議が3時間以上続き、終わって自席に戻ったら左胸のあたりが痛い。なんだこれは。それにしても疲れた。ただまあ、会議自体は嫌いじゃないというか、いろいろな意見を交わしてブラッシュアップしていくというのはなんだかとてもよいプロセスだと思う。自分で用意しておきながら議題の多さには辟易するが。

 うっすらと、VBAを今年は勉強してみたいような気がほんのりとしている。

 明日は4回目のワクチン接種。副反応はないほうがいいけれどあるならあるでいい。接種して、それで死ぬなんてことにならないでほしい。その前に本屋に寄れたらいいな。

 明日はあにちゃんが久しぶりに保育園の予定だが、果たしてどうなることやら。

1月6日(金)
 妻と話して今日もあにちゃんは保育園休み。コロナがやはりちょっと怖い。

 朝ドラ『舞い上がれ』のラストシーンの永作博美の演技が物凄くて、感情移入どころかドラマの世界に引きずり込まれるような、凄味のある演技だった。笑い泣き、というか、あまりに信じられない出来事に遭ったとき、特に大事な人の急な死に直面したとき、そのあまりの信じられなさに、ふっと、笑いが漏れてしまう、その演技がリアルすぎて、一瞬本当にドラマであることを忘れたような感じになった。
 ドラマはほとんど見ないけれど、こういうシーンに出会うと、なんだかずっと心に響く。

 今日のワクチン接種は無事終了。これを書いている今、すでに腕が痛くなってきた。
 数日前から、接種してアナフィラキシーとかでそのまま死んでしまったらどうしよう、と怯えていた。あにちゃんやおとと、そして妻を残して死ぬことがほんとうに恐ろしい。死にたくなかった。
 可能性が低いことは分かっているけれど、自分がそうならない保証はないし、しかも自分ではどうしようもないことで死ぬというのは嫌だ。交通事故とかなら自分で気をつければある程度は回避できるはずだけれど、
 これと似たように怯えることがあるのが雷で、雷が自身に落ちてくる可能性はたいそう低い(らしい)のだが、自分に落ちてこない保証はない。
 どうやら可能性が低いものにばかり怯えるようだ。

 ワクチン接種の前後にブックオフと丸善。ブックオフで郡司ペギオ幸夫『やってくる』買った。この著者、ちょっと気になっている。

 フォークナー、おもしろくなってきて「いいぞいいぞ」とぐいぐい読まれる予感がしている。

 このように、その箱を開くという行為はいつも儀式のようなもので、彼の一族の歴史のある面が暴力的な終焉を迎えたことを記念するものでもあった。固い錠前と格闘しているとき、彼には肩のあたりで大勢の亡霊が静かに息をしているように感じられた。同じ尊大な顔をした亡霊たちが二つの列をなして入り口のすぐ向こうで待機し、その列が目に見えない台座の方へとのび、そこで鎮座する〈何か〉が最近到着した仲間を待っているところを彼は心に浮かべ、そしてまた、そうした亡霊たちが、不死となり、うぬぼれた向こう見ずのふるまいをする機会もない場所で、趣向も欲望も満たされず、少し苛立ち、また少し当惑する姿を思い描いた。不死の宣告を下された観客たちには永遠に傍観させておき、無意味で壮麗な、暴力的な死を永遠に繰り返すことができるサートリス式の天国は、彼らには与えられていないのだ。ジョン・サートリスは、あの夜、夕食のテーブルで、形のよい大きな手でワイングラスをまわしながら、清らかでもろい泡の中にそうしたヴァルハラを見ていたのだった。

ウィリアム・フォークナー『土にまみれた旗』(諏訪部浩一訳、河出書房新社)pp. 121-122

 
 明日どうなるかな~副反応。

1月7日(土)
 副反応、熱は出なかったものの、関節痛と倦怠感、そして熱は出ていないのに悪寒で、身体を動かすのがとても億劫だった。
 妻があにちゃんを連れて昼すぎまで出かけ、私はおととと留守番。動き回るおととを横になりながら見ていた。そろそろ手を離して歩きだすんじゃないだろうか。

 夕方、少し良くなった気がしたので20分ほど散歩しながらハリマロンのコミュニティデー。成果はいまいち。

 夜にかけてまた身体がしんどくなったので鎮痛剤を飲んだ。それでだいぶよくなった。ファイザーの副反応はモデルナほどではない、というのは、発熱しないだけそうなのだろうなとは思う。ただちゃんと副反応が出て、しんどくなるのはやはりつらい。5回目打つ前に収束しますように。

 フォークナーはだいたい1/4くらいといったところか。登場人物がいちいち強烈な感じがする、

 


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