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小説が書けない男の日記(2023.3.12〜3.18)


3月12日(日)
 あにちゃんと赤い公園へ行き、その後初めてIKEAに入る。迷子になる。出口が全然なくて、ようやくレストランでゴールかと思いきやまだ半分で、残りの半分はあにちゃんを抱っこして駆け抜けた。とはいえいろいろな部屋やインテリアを見るのは意外にも楽しくて、あにちゃんも「この部屋はどう?」とひとつずつ確認していておもしろかった。

3月13日(月)
 あにちゃんを保育園に連れていったところ、なんだか元気がなさそうであきらかに普段と違う様子で、どうしたの?と尋ねると、「熱がある」と言い出して計ってみると37.3℃で、普段よりは少しだけ高いかな?というところで、だけど自分からこういうふうに言い出すのはめったにないことなので、妻と相談して休ませることにした。
 病院の予約をして、妻に後をお願いして、仕事。ありがたい、と思いながら、おととも保育園に行く来月にこういうことになったら、あるいは妻が復職する6月以降、どうしようと悩む。今日みたいな感じだったら、おととを保育園に預けてあにちゃんと連れ帰り病院に連れて行き、そのまま仕事を休んで一緒に過ごす、ということになるだろう。お迎えは妻。仕事は……まだあにちゃんは一人で遊んで時間を過ごす、というのはできないから、様子を見つつテレワーク、というのは現実的ではないだろう。ううむ。時期によってはそれはなかなかしんどいことになりそうだった。

 おととは今日が一歳の誕生日。一年、ということをあらためて考えてみるけれど、あにちゃんのときの一年以上に早く経過し、かつ滑らかだったという印象。滑らか、というのは大きな出来事のない比較的スムーズだった、と言う意味ではなくて、振り返ったときのなんというか時間の感触が滑らかな感じなのだった。うまくいえない。おととは歩けるようになったし喃語もちょっとずつ出てきているけど、まだまだ赤ちゃんだ。でもこの一年、おととの一歳までの一年で何より印象に残っているのはあにちゃんの成長ぶりで、だからもしかしたら滑らか、と言ったのは本来の時間の主軸であるおととよりもあにちゃんの方の印象が強いからなのかもしれない。
 いずれにせよこの子ども二人という一年間の最大の功労者は妻なので、今日はノンアル缶を3本プレゼントした。こんなんで足りるとは到底思えないけれど、せめてもの、だ。

 グアダルーペ・ネッケル『赤い魚の夫婦』を読み始めて、表題作を読んだ。赤い魚が夫婦関係のメタファーなのだろうけれど、これは読み違えかもしれないが、赤い二匹の魚の様子が、その時点での主人公夫婦の様子を象徴しているのではなくて、むしろその様子を見て主人公夫婦がそのようになったかのような、要するに未来を暗示しているようなのがおもしろかった。あとは子育てに関する部分。これは共感しかない。

 わたしは妊娠しているあいだ、というより、生まれてこの方、新生児を自宅に連れて帰ったばかりの時期というのは、夫婦にとって最もロマンチックな素晴らしいときだと想像していた。ところが、よそのことはわからないから、わたしに限ってかもしれないけれど、現実はまるで違っていた。睡眠不足と、赤ん坊の世話というデリケートな仕事に慣れるには、超人的な努力が必要だった。休息がいかに重要かや、尋問の前に囚人を不眠の状態にするわけが、このときほど身にしみてわかったことはない。人の親になることは誰もがするあたりまえのことだとばかりに、人々がいつの世も連綿とこういうことをこなしてきたのが信じられなかった。ヴァンサンもわたしも、赤ん坊が壊れやしないかとおっかなびっくりで、沐浴させるのも服を着せるのもへその緒の傷口を消毒するのも、これでいいのだろうかと不安でたまらなかった。九ヶ月ものあいだ自分のからだと一体だった娘を、最初から別のベッドで離ればなれに寝かせるのはわたしには残酷に思えた。ところがヴァンサンにとってそれは生き延びるために不可欠なことだった。どちらも奮闘したが、二時間おきに――その頻度で赤ん坊にミルクをやって、おむつを替えなければならなかった――起きるのは拷問だった。わたしたちはまるで、アパートにとじこめられた怒れるゾンビのようだった。互いにほとんど口もきかなかった。交代で眠るが、いつでも相手のほうが自分より多く寝ていると思えた。わたしはいくら努力しても、思うようにいかなかった。母親としてなっていないと言って、ヴァンサンは遠回しにわたしをとがめ、非難してばかりだと言って、わたしは彼をなじった。そのころ、金魚の世話は彼の担当だった。

グアダルーペ・ネッケル「赤い魚の夫婦」(『赤い魚の夫婦』所収。宇野和美訳。現代書館)pp. 25-26


3月14日(火)
 昨日書けなかったこと。昨日、大江健三郎が亡くなったとのニュース。いったい何年前だったかは忘れたけれど、『飼育』を読んでその文章のもの凄さに驚愕した。文章に惹きつけられた数少ない作家の一人だった。この人の作品を全部読みたい、そう思って片っ端から古本や新刊を買った。しっかり確認したわけではないけれど、私の蔵書で、作家別でみるとおそらく大江健三郎の本が一番多いのではないだろうか。読んだのはまだ4冊かそこらだと思うけれど、いつか絶対全部読むんだ。心からご冥福をお祈りします。

 仕事のセミナーでAPP Sheetの研修を受けた。いま流行りなのかわからないけれど、ノーコード・ローコードというやつだ。説明があっさりでさわりのさわりくらいしか分からなかったけれど、先行活用している人のデモを見て、なんというか可能性の広がるツールだという印象。本を買って勉強してみてもいいかもしれない。明日丸善に行けないだろうか。

3月15日(水)
 おととの夜うなり(夜泣きではないけれど、ずっと「う~」とか「あ~」とかうなっている。声大きい。耳栓貫通)がここ数日復活してきて夫婦で寝不足。仕事にならなかった。具合も悪くなる。あにちゃんもたまに寝ぼけながら泣き叫ぶことがある。不思議なのは、あにちゃんが泣きさけんでいるとき、おととは起きずに寝ていて、逆におととが夜うなりしたら夜泣きするとき、あにちゃんもまた眠っているのだ。どういう耳しているんだろう。うらやましい。

 ネッケル二つ目の短編『ゴミ箱の中の戦争』読み終えた。虫(ゴキブリ)との関係性の変化がおもしろかった。

3月16日(木)
 今日もおととの唸りでほとんど寝れず。体調が悪いときの徴である喉の調子がよろしくない。
 電車では寝落ちしそうになりながらもネッケルをぐいぐいと読み進めた。人間とそれ以外との関係性というか距離?が絶妙でおもしろい。

3月17日(金)
 今週の中では比較的眠れた方で、金曜日なのに一週間で最も体調の良い日となった。
 大きなイベントが今日もあって、それは無事終了し、まだ体力的に余裕があったから残業。少しだけ丸善に行きたい欲が高まってきた。明日床屋の後にいってみようか。明日はヤドンのコミュニティ・デーだ。

 あにちゃん、来週からひとつ上のクラスの教室へ通うことに。それに伴い、いままで担任の先生とやっていた連絡帳が終わる。それがなんだかちょっと寂しい。あにちゃんの保育園での様子を、仕事から帰ってきて連絡帳で知ることが一日の楽しみのひとつになっていたから。これからは先生から聞いた妻の話で知ることになるのだろうけれど、それはなんというか連絡帳とは違って又聞きだから、終わらないでほしかったというのが正直なところ。とはいえお昼寝の時間もきっと短くなるのだろうから、先生たちも書く時間がないのだろう。子どもたちの日々の記録、忘れないようにしないと。


3月18日(土)
 一転寒い日で、朝からみぞれが降っていた。しまってきたダウンを再び出してきて着た。昼すぎに床屋だったので妻たちは実家へ。家に残って1時間くらいYouTubeを見ながら洗濯物を畳んだ。
 カップラーメンを食べて家を出て、凍てつく雨の中歩く。電車に乗って一駅で降りてまた寒い空気の中を歩く。床屋。いつも担当してもらっている理容師さんとゲームの話。Switchがほしくなる。終わって、ポケモンGOのヤドンのコミュデー。めちゃめちゃ捕まえる。途中でベローチェ。体が温まってふたたび仙台駅のほうへ歩く。妻から4月からあにちゃんが使うリュックを見てきて欲しいと頼まれていて、マムートへ。なかなか素敵なリュックがあったけれど妻に帰ってから確認すると予算オーバーだった。残念。まだまだ雨。ブックオフへ行くも買わず。漫画をずっと読んだ。ようやく雨があがって、ところどころで立ち止まってヤドンを乱獲しながら丸善へ。買おうかなと思っていた市河春子はなかったけれどTwitterで見かけて気になっていた赤染晶子があったのでそれと、ちょうど読み終えたネッテルの別の短編集を買った。
 ヤドンをたぶん100か200匹捕まえたけれど、それほど良い個体は出なかった。


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