隣人を自分のように愛しなさい
みなさんこんばんは。
桜もきれいに散っている今日この頃。いかがお過ごしでしょうか?
今日は夏かよって勘違いするほど暑い日でしたが、夜は少し冷えますね。
最近、丸の内の「丸善」に行ってきました。
私の地元に丸善はなく、夏に初めて行ったときに少し感動しました(笑)
高校3年の時に国語で習った梶井基次郎の「檸檬」に出てきたあの丸善だ!
と芸能人に会うような気分になりました。
ああ、昨年の秋頃から読書に没頭しているのですが、
先日「隣人の愛を知れ」を読み終えました。
タイトルからして中々イカつくないですか。突かれる感じ。
私はカトリック教徒なので「隣人愛」については自分の中で如何なるときも
大切にしなきゃいけない概念(?)なのだと
なんとなく心の中にいつもあったように思います。
でも読み終えて、それが覆った!
自分の中の隣人愛への解釈が変わったような感じ。
腹にストンと落ちるような感じ。なんかスッキリしたんですよね。
メインの登場人物が6人いるのですが、
それぞれの視点から見たストーリーがそれぞれ進んでいく、、、
といった内容です。(説明下手すぎ)
6人それぞれは既に誰かから愛をもらっている、
愛されているはずなのに
その存在に気づけていないんだ、と序盤では予測していて、
6人それぞれ愛を与えている「隣人」の存在に私が気付いてやるぞ。
みたいなテンションで読み進めていました。
しかし、アホかってくらい間違えていました。
愛は「受け身」が大前提で話を進めていたことに対して、
作者を侮辱、更にはキリストの教えに対する冒涜だとさえ感じるほど
浅はかな考えだったと最後の最後に猛省しました。
ごめんなちゃい。
(ネタバレっぽくなってしまうけど。。;;)
自分が自分を愛すことができないのに
他人を愛すること、又は他人から愛を求めるなんて
甚だおかしいわっっっっって話なんですよね。
隣人愛は私を取り巻いている人間とのでも
隣でいつも守ってくれているあなたとのでもなく、
紛れもなく自分自身なんだ。とハッとさせられました。
聖書に「隣人を自分のように愛しなさい」という句があります。
自分を愛することさえできていないのに
他人を愛するなんて無理な話だわっっ
と10代でこの言葉に出会って以来、ずーーーっと思っていました。
未だにわからないです。
(そういうもんなのかな。知らんけど。)
まあでも、
私は愛されてもいいんだと許してあげること、
私は誰かに十分愛されているのだと信じること
ができれば今は上出来かなって思います。
(素直さが結構大事かもね)
考えれば考えるほどちょっと難しくなっちゃうので
こういう大事なことの結論て案外シンプルなんだと思います。
「そんな不安にならなくてもあなたは十分に
神様から、世界から、今日という日から
愛されていますよ。だって、〇〇だもの!」
シンプルで一人たりとも残さず幸せな気分になりそうな
〇〇に入るピッタリな言葉を考えてみよっとーーー。(笑)
本日もお付き合いいただきありがとうございます。
ではーー!