アンチフェミニズムが大衆化するとき
大衆とは特に知識を持ち合わせていない、社会を占める大多数の人である。対義語はエリートや知識人などの少数者、知識が豊富で教養を持つ少数の人達だ。
この大衆と優れた少数者という構図は常に固定された関係ではない。例えばマタギなどの狩りの技術や知識という分野においては、特定の学問領域でどれだけ優れた学者であっても大衆である。大衆であるか優れた少数者であるかどうかは場合によって変化する。
何が大衆と優れた少数者を分けるのだろうか。おそらく、その分野において真剣であるかどうかだ。特定の分野でマタギが優れた少数者であるのはそれを生業にしているからだ。生きるか死ぬか、生活がかかっていれば真剣にならざるを得ない。一方で、真剣味のない人たちは「動物がかわいそう」などとマタギを批判する。これが大衆と優れた少数者の構図であり。当然、この場合は学者などのエリートであっても大衆である。また、ここで優れた少数者であっても別の場合には大衆になりうる。
大衆と優れた少数者という構図は珍しくない。もう一つ例を挙げると、自然災害が少ないときには土木業者が叩かれる。もちろん叩かれている側は生活がかかっているので真剣だ。様々な客観的事実を元に必死に反論を試みるのだが多くの場合無駄である。一方で、大衆は無責任で主観的な主張によって攻撃している。自然災害による大規模な損害が発生しても意見を変えることはない。
また、優れた少数者は基本的には弱者である。客観的で論理的に正しい必要があるのは弱者であって、強者はその必要がない。論理的に正しくなければいけない立場というものは強者とは言えないだろう。たとえ黒いものであっても白といえば白になる立場が強者である。その誤りを指摘されても「常識知らず」とか「勉強しろ」などと言って誤魔化せる。大衆は強者である。
上記のような大衆のことを先人は「甘やかされたガキども」とか「凡庸であることを権利として主張する輩」と批判した。
フェミニズムは大衆の権化
現在、フェミニズムとアンチフェミニズムは大衆と優れた少数者の関係にある。フェミニズムは「甘やかされた女ども」であり「弱者であることを権利として主張する輩」である。末端のフェミニストは言うまでもないが、先導する学者たちが「客観よりも主観を重視する」とか「不利な証拠は無視する」などの無責任な主張をしている。
フェミニストを批判するアンチフェミニストは統計などの客観的データを元に反論をしている。彼らが優れた少数者であるのはなぜか。彼らの多くは男性であったり、男児を持つ親などである。彼らはフェミニストから攻撃を受ける当事者であり、利害関係者であるから真剣にならざるを得ない。
アンチフェミニズムの大衆化
アンチフェミニストが優れた少数者であるのは彼らが真剣だからである。であれば、客観的事実など提示する必要もなくなるほどにフェミニズムの欠陥が明らかになったとき、彼らは真剣ではなくなるだろう。つまり、アンチフェミニズムが勝利した場合にはアンチフェミニズムは大衆化している。
アンチフェミニストは男女論において鋭い考察をしていても、それ以外の分野の話題においては無責任で非論理的な発言をする大衆であることが珍しくない。彼らから真剣味がなくなったときにどうなるかは容易に想像できるだろう。
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