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限り無い攣を束ねて〈ep2-1〉

    ep2-1

 《裸の女は無個性に躍る。無個性である事が目的なのか、それは附随しているものなのか判らない。だが、享楽は仮面を許さない。故の嫌悪感なのだろうか?誰もがセクシャリティに嫌悪感を示している。或いは、嫌悪感を持って話す事に快楽があるのだろうか?どちらにせよ詰まらない交わりは仕方なく横たわっている。裸の男も無個性で厚かましい、と誰かが述べて、少年ガラテアは目玉を泳がせた》

 形容し難い程に散らかって汚い六畳半の部屋に、男は横になっていた。閉じられたカーテンの隙間から這入って来る光に照らされるのは安酒の瓶やインスタントラーメンの食べ終わったカップ《割り箸が突っ込まれている》、紙、埃、請求書やビタミン剤、その他由来の分からない微塵だ。食品が腐敗した臭いとアルコールの臭いが入り混じり、其処に体臭が入り組んで、酷い異臭が立ち込めている。だが、男は黙って身動きをせず、部屋の壁に貼られている女のヌード写真をぼんやりと眺めていた。
 《その部屋は辺獄の住宅街にある荒廃したアパートメントの一つだ。輪の様に連なる団地でそびえたつ壁の洞穴の様にそれは密集している。隣には大使館跡が在るが、何処の国の大使館だったのか判らない。リンボの輪の中は空爆を受けた後の様に瓦礫が散っていて、埃っぽく、洪水の後の様に異臭が立ち込めている。教会は崩壊していて、天井が失われて、モスクはステンドグラスを残して粉々になっている。ビルが崩壊した周囲には生き残った子供達が真黒な顔のまま住み着いていて、力強く逞しくも何処か悍ましい生態を保って生息している》
 僕は考えるのを止めたい、この恐ろしく退屈で冗長で複雑で的外れな肉塊に付いて思い知らされたくないのだ。だが、そう思っている時点で生きていると云う冷酷な刃物が僕の喉元に付き付けられているのを感じる。《走れ!走れ!働き回れ。生産より沢山の生贄と自己犠牲を器に注げ》生きる事の不快感が虫の様に肌の上を這っている。今日は昨日で、昨日は今日だった、そして、明日は置き忘れた記憶の様に目の前に転がっている。僕は利用され捨てられた、でも、何に利用され何者に捨てられたのだろう。僕に足りなかったものとは何だろう。ああ、きっと誰かの所為だ。
 《あなたは青白く、つるりとした様子で、燃える様な瞳を宿している。何日も外に出ていないのだろう。其処には生気がない。驚いたままの表情を維持した様な無表情であなたは私の裸を見ている。あなたをそうさせているのは紛れもないあなた自身だが、あなたはそれすらも忘れている》
 ああ、君は何と云う名だろう、男は思った。永らく見ているのに名前も判らない。そもそもどの様な経緯でこのポスターが貼られているのかも思い出せない。女は此方を見ていない、カメラと目線を合わせず、裸のままソファーにのけ反っている。乳房は重力でゆったりと広がり、張りのみで浮遊したクラゲの様に丸くあり、褐色で果実の断面の様に赤い大きな乳輪は神経を尖らせた末端として見るものを待ち受ける。右手には火の付いたタバコが添えられていて、女は煙を吐き出している。然し、一見して少女の様に若々しい。顔付きは生意気そのもので、反抗的にすら見える。体全体は華奢で手足が長い。グラマラスであるが若々しい、体が出来上がっていないのだ。大胆に組んだ素足の間には陰毛が見えるが、女性器は膝に隠れて見えない。その足は実に日常的なエロティズムを持っている。鍛えられてもいなければ、洗練もされていない。だが、瑞々しいのだ。彼女は如何なる理由からタバコなんぞを吸っているのだろう?ポルノグラフィにしては日常的な部分を含んでいる。表情は恍惚としているが、見るものにうっとりとしているのではない、寧ろ目線の先に在る何か、或いは空想上の何かに酔っている。それが如何なるものであるのか判らないが、彼女にその様に見られる何かが、或いは何者かが、僕には羨ましく思えた。然し、僕の生涯に一片でも誰かをうっとりさせるものは無い。
 男は微塵も動かない中意識を回転させている。
 見れば見る程に美しい女性だ。いや、美しい肉体と云うべきなのだろうか。丸で、今にも動きそうな躍動感を持っている。今にも手足の緊張を解いて、此方を向きそうだ。きっと優れた写真に違いない。だが、如何に優れていようとポルノに違いない。撮影者も態々名乗りを挙げたりしないのだろう。
 「美しさとは何だろう」少年ガラテアは云った。尋ねたのではなく云ったのだ。彼は部屋の隅で膝を組んで座っている。硝子玉の目は曇っていて感情は見られない。砕けた家具と使われていない椅子の間に窮屈そうに彼ははまり込んでいた。「あなたの中にある美しさが呼ばれたのか、美なるものが体現しているものなのか?だけど、それは常に逸脱を求めている」
 だが、男には少年ガラテアの声は聞こえないかのようだ。
 男は自分が思う、ろくでも無い生涯を思い出し、その中で輝いていた女を思い出そうとした。然し、記憶の中の女は凡てポスターの女に変身してしまい。その他の女の顔を上手く思い出せない。そして、汚れた浴衣の中の男性器が大きくなっているのに気付いた。彼は浴衣を広げ、下半身を露出する。だが、通常通り彼は自分の体に何の感動も覚えない。無感動では無く、無関心とも云える。それは行為を行いはするけれど、それ自体として鑑賞に値しないかのように彼の半身に付随している。
 「あなたが美しくしているのか、美しさが流れ込んでくるのか」再び少年ガラテアは云った。
 すると、不意に何処かから女の声がした。男にはそれがはっきりと聞こえた。
 《こっちを見て、私を見て》
 何時かの学校の帰り道、手を繋ぐか繋がないか迷っているクラスメイトの少女の顔はポスターの女である。彼女は表情を作らない、然し、躊躇しているのがわかる。僕に合わせて歩き、僕も合わせて歩き、少しずつ近付いているのがわかる。だが、どうして手を繋ぎたいのか判らない。
 《こっちを見て》
 何処かのカフェの窓際の席で、彼女は熱心に本を読んでいる。彼女は自分を読書家とは考えていない。趣味に読書を挙げるかどうか、何時も悩む人間だ。そして、実に熱心に本を読んでいる。彼女が好むのは古典小説である。現代的で行間が広く、文字の密度が無い文章が好みでは無い。
 《それは好みの問題。別に行間や余白がある本も悪くは無いと思う。でも、基本、文字情報でしょう。1ページにある文字量が少ないとその分本は重くなり、内容が希薄になる》
 僕からすれば読書など苦行だ。出来れば、内容を捨象して教えてもらいたいぐらいだ、男は思った。
 《こっちを見て、私を見て》
 女は気怠そうに横になっている。はだけた体を隠しもせずに光の方を向いてタバコを吸っている。今さっきのセックスが面白かったのか詰まらなかったのか感想を述べようか迷っている。僕はこの上なく幸せであったのに、その気持ちは精液と共に流れ去ってしまった。丸で、自分が当事者で無い様に他人事に見える。そして、その様に詰まらない男の事をその女はよく知っているのだ。
 《一時的なものかも。でも、大抵の男は、実は、セックスに興味が無い様に思える。女と云う他人に介入して、侵犯し支配し、管理する快楽が欲しいだけで、セックスを楽しもうとは思わない。其処にはコミュニケーションが殆ど無く、それはトラブルと袋小路を生産する思考停止なのだ。だけど、私を見て》
 そうかも知れない、男なんて取り敢えずやりたいだけなのかも知れない。でも、僕は詰まらないとは思わなかった。素晴らしいと思った。でも、その素晴らしい瞬間が言葉に出来ないのだ。
 《それは流れ去り排泄され、カタルシスを残す。それでもこっちを見て》
 すべてが彼女になっている。彼女に会った事もないのに、どうしてだろう?余りにも馬鹿げていて虚しいではないか、男は思った。
 《どれだけ馬鹿げていようと、どれだけ薄っぺらであろう。どれだけ光が薄かろうと、どれだけ疲れ果てようと、こっちを見て、私を見て語り掛けて》
 ああ、語り掛ける君が居れば、語り掛けよう。だが、僕は何を語れるだろう?何も無い気がする。何時もの様に詰まらない事を一言二言云って諦めてしまうに違いない。僕は会話と云う運動が得意ではない。
 《あなたはコミュニケーションに対して怠慢だ。でも、私を見て》
 ああ、君は何をそんなに熱心に見ているのだ、彼はポスターに向かって思った。
 《海が見えるの。雨が降っていて、少し荒れている。波音は此処まで届いて来る。別に、波音が好きと云う訳では無い。それは何処かしら不吉な音色に思える。でも、とても質量の大きな音は、私の内にも響いていて、震わせている。それは私を攣らせていた何か。波が引くには時間が必要でしょう。でも、私はまだ、引かせたくない。何度も呼び戻したい。でも、荒波に浚われる様に、あなたは遠くに行く。それとももう一度私に射精する?》女は此方を見て尋ねた。
 その時、男は奇妙な事に気付いた。ポスターの女の顔が此方を見ているのだ。それは挑発的で、不機嫌そうにも見えた。静止した、女性像は足を組み、タバコを手に持ったまま、視線を此方側、つまり見ている者に向けている。その視線は彼女の裸体を撫でまわす視線を捕らえていて、意識していているのだ。
 《やっと目を合わせてくれた。ずっと呼んでいたのに》
 ずっと?何時からだ。目線を逸らしていたポスターの人物が視線を動かすなどと云う事があり得るだろうか。いや、それは問題では無い、男は思った。彼女は話し掛けているのだ。
 《ずっと呼んでいた。あなたが私の事を見て自慰行為をしている最中も、お酒を飲んでいる最中も、眠っている時も、あなたを呼び続けていた。あなたが退屈でやるせない生活を続けている最中、ずっと。あなたは私が欲しい?》
 何を云っているのだろう。欲しい?それは何を求める事なのだろう?
 《或いは求める事とは何なのだろう?》
 そして、女は半透明な四肢をポスターの内側から押し出し、男の部屋へと降りて来た。その体はやや重力が薄く、落下と云うものが無かった。然し、質量はあり、彼女の乳房は直立した事で角度を変えた。今、彼女は男を跨いで立っていて、男を見下ろしている。顔の影は室内の光の影響を受けているが、やや発光していて、表情は明らかに見える。彼女は微笑をしていて、黒く、猫の様に鋭い瞳は嵐の中心の様に男を凝視している。彼女の女性器は今や膝に隠されていない。彼女の性器は奇妙な姿をしていた。クリトリスが大きく、包皮が剥けていて勃起しているのだ。それは指の第一関節程の大きさである。
 《あなたを責めている訳ではないの。でも、責め立てているの》
 申し訳ないと思うよ、男は思った。
 《何に対して?裸を見た事?呼び声に耳を傾けなかった事?》
 判らない。
 《さあ、衣類を脱いで、散歩に行きましょう。きっとあなたはそれを求めている》
 男は残りの衣類を脱ぎ捨てた。彼の性器は激しく勃起して体液が溢れている。男は女に触れようか迷っていたが、女はそのままの姿で部屋から出て行った。男はそれに付いて行った。
 部屋には少年ガラテアが残っていた。彼はつまらなそうに座ったまま結局動かなかった。或いは、それが人形で在ったかの様に思える程に。

 雨粒が砕ける音が鼓膜の波になる。一つ一つが硬質な結晶の様にはっきりとしていて、それは落下して無数に分かれて四散している。その小さなものの束が肌を震わせる様に押し寄せる。二人は安いビニール傘を一本差し、その雨へ向かって歩み出した。辺りは住宅街である。《正しくは元住宅街だ。アパートメントの殆どは姿形を失って建物としての機能を持っていない》昼間の時間で天候の所為もあるからだろうか、辺りに人の気配は一切なかった。
 《ねえ、どんな事を考えてオナニーをするの?》
 どんな事を考えて?判らない、いや、思い出せない。不思議にそれは焼却された何かであるかの様に彼の中に無かった。
 《部屋に飾ってあるポルノグラフィの女が突如飛び出して来て、あなたを誘惑する、と云う幻想は如何?》
 密集した密室の束が右と左にある。それは様々な目的を持っていた密室である。たとえば雨風を凌ぎ、睡眠を取り、性交を誰にも邪魔されずに行う為にそれはある。だが、今、それは沈黙していて、ただ二人の背景となっている。男と女は裸で、靴も履かず、素足に雨の流れを感じて歩いている。《瓦礫を踏まない様に気を付けなくては》雨の流れは比較的激しく、素肌には冷たく、雨風を受けた素肌は鳥肌が立っていて、やや青ざめている。二人はそのまま近くの公園へ這入って行った。そして、公園の隅にある花畑に行くと、女は男を跪かせた。
 《さあ、両手で支えて、膝をしっかりと付いて。膝を付くと、体幹が伸びて肛門に刺激が加わるのがわかるでしょ》
 男は女を見上げ必死に傘を支えた。女は雨に打たれながら露出したクリトリスに触れた。すると男は亀頭の先に圧力を感じた。女は自分のクリトリスに雨を絡めながら、そっと捩じった。すると、男の亀頭はそれに合わせて捻じれた。男はそれまでに味わった事の無いものを感じ、堪えた。
 《これはセックスなのかしら、自慰行為なのかしら。私にはどうでもいい。あなたは緊張して弛緩する事を求める。露出して、晒されている体に恥じらいを感じながら、密室を求めている。そう、あなたは限り無く閉じ込められている。あなたは何時からどの様な理由で引き籠ったのだろう?それは危機的な状況だったかも知れない。或いは、取るに足らないものだったのかも知れない。人は無自覚に侵犯する。時に痛みを伴って、時に、エロティズムが故に。でも、それによって閉じ籠ったものもまた、侵犯する。ただ、退屈だと云う理由からか。いや、それは退屈より先にあった行いだ》
 辺りにはビオラやパンジーが咲いている。雨は雨期の花に水を与え、夏に咲く花々に栄養を供給して威勢よく流れている。その動きはゆっくりではあるが、着実で、留まる事を知らない。
 《あなたの手足から木の根の様な、枝葉の様なものが侵攻して、あなたの末端に迫っている。それはあなたを捩じり、緊張したペニスを潤し、痒みを増している。肛門と睾丸の裏を通っている前立腺にもそれは這っている。あなたを掴み離さず、前後に揺らし、貪り蝕んでいる。もう、あなたは我慢が出来ない事を知っている。でも、我慢が出来ない事を知っている我慢とは、既に我慢と云えるものなのだろうか?》
 男は傘を空に翳し必死に堪え、声を上げた。女は半透明のまま、彼を見下ろしている。
 其処に傘を差した少女が現われた。眼鏡を掛けている美しい少女だ。廃墟に屯する子供達とは違う。小学校高学年と云った所だろうか。彼女は何か心配して男に近付いた。
 来ないでくれ、彼は思った。もう限界だ、もう駄目なんだ。
 その様な声に反発する様に少女は花畑に足を踏み入れた。
 「大丈夫?」少女は尋ねた。そして、男の姿を捉え、跪いた彼の前方に立ち、彼の顔を見た。彼女の顔には奇妙なものがある。其処に淫らなものがあると云う予感を持ち、それを弄ぶ心持が現われているのだ。
 だが、どうして幼い子供がその様な事を考えるだろう。
 《ああ、この子の前で射精する訳にはいかない、とあなたは思うけれど、それこそが緊張の絶頂だとあなたは知っている。知っているけれどそれを認めたくない。私は手を放す、あなたを放つ、あなたを突き落し、あなたは噴き上げる》
 彼は我慢出来ずに射精した、両手で傘を支えたまま。精液は威勢よく飛び散り、少女の衣類に付着した。
   ×
 これは幻なのか、男は自問しながらタバコの煙を吐き出した。
 彼は浴衣姿で透明のビニール傘を差して。タバコを吸っている。
 これとは何だろう?僕が入院している事だろうか、あの女の事だろうか、或いは少女の事だろうか?少年ガラテアの事だろうか?どちらにしてもこの記憶はとても昔のもので、それから長い月日が経っている。何が正しい記憶だろう?部分的に正しくて部分的には間違っているのだろうか。或いはすべてが間違っていて、すべてがでっち上げの妄想なのだろうか。恥ずべき記憶だ、恥ずべき妄想だ。出来る事なら無かった事にしたい。《然し、あなたは精神病院に入院していて、どうにかこうにかタバコを口にして、思い描いた妄想へ向けて煙を吐き出している。あなたは妄想の中で私は相変わらず裸で、あなたに語り掛けあなたを逆撫で、震えさせ、勃起させている》何処からが僕の記憶で、何処からが偽りなのだろう?《何処からが現実で、何者が存在するのか?》
 男は都内郊外にある精神病院の施設内の外れに立ち、タバコを吸っている。塀の向こうは酷く寂しい住宅街で、日中と云う事もあり、人の気配が無い。見上げる建物は雨で黒くなり、鉄格子が嵌められた窓から白いカーテンが見える。建物と塀の間には手入れのされていない茂みがあり、雑草は背丈を伸ばしている最中である。病院の入り口から敷地の内側には広い駐車場があり、正面から古く奥床しい建物が見える。戦後、或る著名な建築家がこの建物を建てた。院内は外来と開放病棟と閉鎖病棟とがある。全体が回廊の様に出来ていて、中央には庭の様な空洞がある。四方どの窓からも光が入って来る工夫なのか、監視されていると云う意識を生む為のものなのか判らない。古い建物の多くがそうである様に、建物は部分的に、或いは拡張する形で新しくなっていた。遺跡の続きにプレハブが足された様な印象であるそれは酷く不調和で便宜的なものに見える。回廊の外に足される様に四方形の建物が足されていて、その外壁は古い建物と合わない。内部には作業療法などを行う施設や小さい図書館などがある。病棟内はいずれも男女で区分されていない。大部屋はベッドを囲む大きなカーテンで仕切られ、個室も在る。現在、ベッドの空きは無い。短期的入院を必要とする患者の出入りは激しい。近年の禁煙ブームに乗り、施設内での禁煙が実施された。院内の喫煙者の多くが、外出許可を取って、施設の外れで喫煙をするが、内外からの苦情も多く、喫煙習慣のある患者には医師からの禁煙が進められている。
 男は二十代半ばに見える、或いは三十代か、異常に痩せていて、髪の毛が長く、体質の所為か、髭は殆ど生えていない。身長は高く、痩身は衣類の上からも異様に見える。浴衣から出る腕も木の枝程に見え、指先の肉も殆ど見えない。顔立ちは凛々しく、瞳は聡明に見えるが、目元は驚いた表情が硬直した様であり、顎を引いて立つ姿は緊張感が漂っている。男が好んで浴衣を着ているのか、習慣なのかは判らないが、気姿は慣れていて、帯の結びもしっかりとしている。浴衣は藍染のもので帯は白地に黒の献上帯である。男の名は北上冬見(きたがみふゆみ)と云う。
 雨はひるがえる花咲きを越え、緑はおぞましい音を立てながら梅雨を謳歌して、影は逸脱する傾きと声、一人は綻び二人は滅び蝕み合う放火か、浄化か異常な炎を秘めた密室と化す、北上冬見は思った。すべてが君に見える、すべてが君に聞こえる、君が悪夢と云うのなら、これが現実だと思い出せるだろうか。君はタバコの煙を溶かし、吸い込みながら立っている、あの時から、着衣を忘れた呪いの様に。
 《あなたは未だに私を見ている。私を思い出し、思い出を侵犯しながら、予感を塗り替えている。丸でその様なシナリオしか知らない喜劇の中の悲劇の主人公の様に、滑稽な情景を再現している。あなたはどうして私を忘れないのか。少々、意気地なしに思いわないのか、自らを惨めな身分だと思いわないのか?》女は云った。女は雨の中一糸まとわぬ裸体で堂々と起立している。《どうして裸は無個性なの?それは見る者が無個性な性質で見ているからに他ならない。生身の女なら視線や蛮行に耐えかねて、諦めて下着でも着るでしょう。その辺の惨めなボロを肩から掛けて身を隠すでしょう。でも、幻である私に気兼ねなどない。そろそろ見飽きて来たのでは?》
 北上冬見は灰になったタバコを携帯灰皿に入れ、再びタバコに火を点けた。
 僕より惨めな男が居るだろうか?憐れな自分を寂しいと思う男より侘しいものがあるだろうか、彼は思った。
 《あなた程に惨めな者は珍しい。若くして発狂し、親から追い出され、実家から離れた土地で実質的な私宅監置をされて、挙句の果てに入院しているのだから。あなたが此処から出られる理由がある?肉親すら忌み嫌う人間は何処でくたばれば良いと云うのだろう?或いは此処から出たとして、何処で何をしようと云うのだろう?学も無く能力も無く、可能性も伸び代も胆力も頼れる他人も持たないあなたに、如何なる予感があるのだろう?どうして自殺しないで生きていられるのだろう?》
 そうだ、どうして死なずに生きていられるのだろう?彼は思った。どうして我慢して生きているのだろう?面白くない日々を何年繰り返せば満足して死ぬのだろう?或いは、その様な拷問の類いだろうか?不味いタバコが雨に溶け、彼は吸い殻を携帯灰皿に再び押し込んだ。
 病院の敷地の周りには花壇があるが、其処には一輪の花も植えられていない。名も知れぬ背の低い木が敷地の内側に不気味に立っていて、その下には少しずつ雑草が生えて、野生のオレンジ色のヒナゲシが点々と花を付け始めている。
 彼は仕方なく透明なビニール傘を押しながら駐車場を回り、病院の表面出口を通り、病棟へと向かった。敷地の内側はどんよりと暗く、入り口を跨いだ途端に空気が少し重くなったように思える。
 少しでも黙ろう、いい子に見える様に、少しでも頑張ろう、閉じ込められない様に、少しでも歩こう、周りが聞き分けの良い気違いだと思えるように、彼は思った。
 《然し、どれだけ羽ばたいても虫けらを見る様な視線は消えない。泳いでも、泳いでも渡り切れない大海に溺れる様に、あなたが正気のある人間に救われる事はない》
 判っている、だから大人しく帰るのだ、僕の愛しい閉鎖病棟に。
 「帰りました」北上冬見はナースステーションへ向かって云った。
 男性の看護師が施錠された鉄製の扉を開けた。
 ナースステーションには一人の女が立っていた。上品な半袖のブラウスにハイウェストのスカートを着て、手荷物に花束と紙袋を二つ持った上品な女性だ。後ろを向いている為顔立ちは判らないが、後ろ姿から美しい麗人と判る。北上冬見はその女性を淀んだ視線で眺めた。
 「北上さんお帰りなさい」看護師の男性が云った。「こんな雨の中でもタバコを吸いたいものですか?」《早く喫煙を止めないと薬漬けにしてぶち込むぞ》
 彼は呆然とその女性を眺め続けた。
 《何処かで見た事がある、とあなたは思う。でも、如何だろう、あなたの過去に現れる様々な人物が私の姿に見える様に、その人物も私に見えるか?》
 女は振り返り、猫の様な瞳で彼を捕らえると、とても日常的な微笑みを返し、御見舞いだろうか、いずれかの部屋へ這入って行った。
 ああ、君に似ている、余りに凡てが君に似ていて無個性だ、彼は思った。そして、やや重たそうに体を動かしながら寝室へと行き、その体を布団で包んだ。
 院内は異常に静かである。それは慎ましい人々が集った厳粛な沈黙とは異なり、肌をピリピリと刺激する。入院している各々の患者に去来するものが何であるのか形容出来ないが其処には様々な緊張感がある。それは猜疑心とパラノイアが入り混じり、互いが互いの架空の敵対者として存在していて、且つ、冷戦的微笑で社交辞令を述べている様なものだ。彼等の内で一人でも、表に出たくない、と考えている者が居るだろうか?だが、多くは外部での刺激に耐えられない。
 北上冬見の寝室は六人部屋である。他の患者の多くはイヤフォンを付けて携帯をいじっている。嘗ては携帯電話等の電子機器は禁止されていたが、現在は特別な理由がない限り所有は認められている。《その様な規則なのだ》入院生活で最も敵視すべきものは退屈である。退屈は他者を攻撃し、傷付け、弾き返って来る。だが、精神病院から必死で発せられるメッセージと云うものがどれ程他人に届くのだろう?北上冬見は真白な線の無いノートを出して、其処に万年筆で何かを書き始めた。
 裸の女が立っている。何時もの様に立っている。丸で親しい友人の様に、丸で何かの呪いの様に。彼女は妙に挑発的で、愛らしく、僕を退屈させない。耐え難いのは、彼女が存在しないと云う事実であり、触れる事が出来ない僕の妄想であると云う点だ。今日の彼女はポスターから出て来た。彼女の話をすると、多くの女性は眉間に皺を寄せて僕を責める。《自らの性的価値を安く売り払う女など居ない》と云わんばかりに、僕を責め立てる。きっとその通りなのだろう。
 《でも、私はこうして居て、あなたの隣で誘惑する》
 やがて、彼の頭に真白い午睡が降って来た。
   ×
 たとえこの世が欺瞞に満ちていようと幻想を磨き、〈僕達は嘘吐きだけど大丈夫〉と励まし合う日常だ。逆に如何なる嘘で如何なる事実を忘れ様としていたのか、僕等は忘れつつある。誰もが日々生産性の無い事をやっている事に自覚はある、だが、どうして思い付けるだろう?目の前を通り過ぎるアイディアとチャンスが濁流に流されて行くイメージと共に、袋小路の中で僕等は年老いて行く。誰かを説得して雪原を歩むのに疲れたなら、此処で凍死するしかない。
 「だけど美しさはあなたを挑発し快楽を呼び寄せる」少年ガラテアは云った。彼は泥にまみれて路上で寝転がっている。辺りは雨の降る草原で、背の高い雑草は雨期の盛りに歓喜の声を上げる様に背を伸ばしている。「あなたに子を持つ資格やら責任がある訳でも無いのに、繁殖は要求する」
 「僕にどうしろというのだ」彼は少年ガラテアに云った。
 「どうして愛そうとしないのだろう。それは問い続けるに値する命題だ。それを知らないと知っているなら舐めてから問える、問うてから抱ける。
 ダイアモンドが降って来る白い夜、
 君は知らない女を抱いている。
 愛や温度を狂っている緑が追う、
 今日は、曲がり合う足になる。
 突き放す体が急に脱力して、一つの重みが、
 体に巻き付いて落ちて来る。
 灰やフォントの嵐の中で、
 君らをどの様に語っても罪深い限りだ。
 液晶から飛翔する虚構になろう」
 男は寝転がる少年ガラテアを無視して、街の方へ歩いて行った。とても侘しい廃墟の街だ。薄霧の合間から見える街には人の気配が無いが、人形の様に直立した裸の女が立っている。どれもこれもポスターの女だ。
 《あなたは私を思い出している。私の黒髪や乳房と陰部を、私のシルエットを、だけどこの反復に愛を見出せない》
 《判定の難しさとは、数的問題では無く、言語化出来ないものを明瞭な技術であると認識する受け取り手の問題だ。たとえば、或る特定の楽器の演奏が得意な人物が居るとしよう。だが、その楽器は極めて特異である為に比較が出来ない。演奏する側は良いパフォーマンスと悪いパフォーマンスが明確に判るが、聴き手は違う。出来の悪い演奏に間抜けにも高々と喝采を与え、出来の良い演奏に罵声を浴びせ罵る。その間違いを思い知った時の云い訳を考え出すとまともなリアクションすら取れない。故に、専門分野とは権威的判定を信じるしかなかった。名ピアニストは周囲の専門家が演奏力を保証するから名ピアニストで居られる。その様な奇妙な遅れが様々な分野で起こり、合理的な判定は不可能になった。受け手の思考停止が自明になった時、人は実際の実力より名声を当てにする様になり、実力と解離した名声を仕方なく受け入れる様になった。それがメディアの閉塞なのか?此処で云う生産性とは、母数を増やすか、根強いキュレーションの積み重ねと云う所だろうか?》
 僕は眠たくて最早自分が誰であるのかも思い出せない。話し掛けているのは何処かの女だ。それだけは判る。だが、無数の登場人物で構成されている文面上の僕とは一体何者なのだろう?
 《それは狂気であり、諦念だ。私達が暮らす社会が省きたいのは、怠慢とトラブルを生産して物事の流れを頓挫させる因子の事だ。だが、この社会には強固なシナリオがあり、其処から逸脱する因子を素早く隔離する。あなたはこの上なく収束して行く、多様な無個性であり、デリートされて行くキャッシュなのだ》
 無数の紙飛行機が轟音を立てて空中を旋回して行く。男は雪に似た灰に埋もれて思考を放棄している。街中だが酷い悪臭が立ち込めている。そして、足音は聞こえる。この焼け野原で迷う事無く歩き続ける何者かが彼に近寄って来る。やがてそれは、彼の視界に這入った。
 それは見知らぬ女であった。逆光で姿は見えないがあの女と同じ姿ではない。彼女は足を止め、男を少し見て歩みを進めた。白いワンピースの様な寝間着の様な物を着ている。
 「死を乞う火の鳥を一思いに殺して差し上げます」彼女は云った。
 彼女は一人歩みを進めて行った。男はそれを後ろから眺めていた。
 幾つもの陽炎が僕の隣を通り過ぎて行く、彼は思った。だが、一つとして留まる事が無い。丸で、コミュニケーションを拒絶する隣人同士の様に、僕等は冷たい沈黙で傷付け合う事に依存的だ。

ep2-2へ続く

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