限り無い攣を束ねて〈Ep3-1〉
Ep3-1
《其処は古い図書館だ。積み重ねられた書簡は背の丈をゆうに超え、本棚の上部に手を伸ばすには梯子を移動しなければならない、その為の梯子に座っている少女が君だ。君はこの上なく熱心に本を読んでいる。君はこれまで読書家ではなかったが、少女の姿の君は夢中だ。背表紙の様子から、それは恐らく古い本なのだと分かる》
風が靡くと、カーテンが揺れ、木漏れ日が差し込んで来る、猛烈な蝉の鳴き声が波の様に現われ、緑は光に向かい燃える様に茂っている。何処かで風鈴の音が鳴ったが、それは酷く大きな木製の風鈴だ。不意に、顔を思い出した少女は顔を上げた。
きっとこれは夢だ、彼女は思った。私はもう、少女ではない。多分、大人になっていて、何処かで眠っていて、無垢な夢を見ているのだ。でも、夢が覚める気配は無い。今、あるのは本への熱意だけだ。どうしてこんなに読書が面白いのか判らない。そして、恐らく、目覚めると読書の面白さなど忘れてしまうのだろう。風が薫っている。とてもいい匂いだ。此処は緑が多く、不快な騒音もない。虫や動物の鳴き声が良く通り、風な通り抜ける音が良く聴こえる。
《風は群生する草花の上を走り、水溜まりを震わせて窓を通る。君はページを捲り、扉の向こうへと視線を馳せた。風は廊下を通り抜けて、回廊の庭に飛び出して行く、その向日葵のある庭から上空へと抜けると、風は推力を失ったかの様に落ちて行く。少年は落ちて来た紙飛行機を拾って、滴っている汗を拭った》
少女は風の動きを読んだのか、庭に誰かが居る事を感じた。それは廊下をゆっくりと歩きながら、此方に近付いて来る。邪悪なものではないが、良く知らない足音だ。
「紙飛行機が飛んで来たよ」少年ガラテアは云った。サラサラとしたシルクの髪の毛が印象的な男の子だ。ガラス玉の瞳が妙に大きく、冷たく、賢そうな印象をしている。
「風がページを盗んだの」少女は云った。
「そう、なら、返してあげないと」少年は云った。
「別にいいのよ。幾ら盗んでも。減るものでは無いから取っておいて」少女は云った。
気の所為か、少女は妙に空腹を感じて、本を閉じた。
「昼食にしましょうか?」少女は云った。
「何かあるの?」少年は尋ねた。
何処かから海の薫りが漂って来た。ああ、海に行こうと彼女は思った。
顔を思い出した少女と少年ガラテアは揃って食堂へ行った。長方形の机が並べられた食堂には天井が無く、剥き出しの太陽が室内を熱している。顔がステンドグラス状に失われている、秘する女神が、昼食としてスープとパンを配っている。辺りに居るのは三人だけであるから、二人は余ったものがどうなるのか疑問に思った。
「こんなに作っても余るのでは?」少年ガラテアは尋ねた。
「余りは街に持って行きます。原発もありますし、内戦も続いています」秘する女神は云った。
「そう。ボランティアですね」彼は云った。
「今度友人がコンサートを開きます」秘する女神はそう云って彼にチラシを渡した。
《キャンディー・サクリファイシズ・ライブ》と其処には書かれていた。
「キャンディー・サクリファイシズってどんなバンド?」少年ガラテアは顔を思い出した少女に尋ねた。
「アイドルユニットだよ」顔を思い出した少女は云った。「七人の女の子が年間人気一位を選挙で競って、一位になるとポルノ女優としてデビュー出来るの」
「何だか酷い話に聞こえるけど」彼は云った。「一年間頑張って人気者になっても体を売る事になる、何だか残酷だ」
「でも、残酷さこそが少女性だと思わない?」彼女はテーブルに食器を置いて腰かけ云った。「年に一人の犠牲を出す事で少女性を保つ。でも、その一人になりたがる女の子も居る。今どきポルノ女優は人気の仕事でしょ?」
「そうな?」
「中にはポルノ女優になりたくない子もいる。恋人が居る子も居るかも知れない。人前では嫌と思う子も居る。でも、一人が選ばれ残りは少女性を保つと云うシステムが七人を輝かせる。ファンの中には白日の下で女の子のセックスが見たい人も居るし、好きな女の子は選ばない人も居る。そもそも、誰か一人を選ぶ事を非道だと思う人も居るし、実は全員を裸にしたい人も居る。そして、投票は揺れ動く。本意と拒否が入り混じりエネルギーになる」
「僕はそんなシステムの事想像もしなかった」彼は云った。「女の子の誰かがそんな辛い定めを生きている何て知らなかった」
「そう、辺獄は今日も奇妙だね」彼女は云った。「たとえば一年後にあるのが選挙では無く結婚だったら心象は違うかな?」
「どうだろう?望んだものなら違う気がする」
「私は結婚と公開処刑に大差が無いと思う」顔を思い出した少女は云った。
「そう云うものかな」
風は穏やかに吹き、何処かから笑い声が聞こえた。
少年ガラテアは思い悩んでいる。
きっと結婚と公開処刑に付いて考えているのだろう、少女は思った。
二人は食後海へと向かった。
×
真糸はペダルを漕いだ。白いシャツに膝丈ほどのスカートの学生服だ。全身から汗が吹き出し、髪の毛は肌に絡まり、体中の産毛が汗と衣類で窒息しそうで痒い。空は狂騒の青で、醜く汚染されていて直視できない程の晴天だ。少女は乗っている自転車が出来るだけ早く走る様望んだ。然し、滲んだ汗は脇や股間へ溜まり、下着は重くなり食い込んでいる。彼女は眼鏡を度入りのサングラスにしようか真剣に考えた。
日焼け止めは充分だっただろうか?彼女は思った。一日の終わりに肌がヒリヒリと痛むかもしれない。熱中症にも気を付けなければ。水分を補給するよう気を付けているが、飲み込んだ水分が尿にならずに肌から溢れている様だ。スカートは夏に向いている。半ズボンでもこれだけ汗をかけば不快だろう。でも、結局は同じ事だ、余りに暑過ぎる。シャツの下の下着が透けるとか気に掛ける隙間がない。丸で、頭からバケツで水を被った様に水浸しだ。私はエロティックな匂いをばら撒いているだろう。腋の下と股の間から、それは見境なく流れ出している。でも、私はすべての男と交わりたい訳ではない。
彼女は信号で静止する度に自転車の籠に投げ入れられたペットボトルを仰ぐ、然し、どれだけ飲んでも渇きが癒えない。
私は如何にしてセックスに付いて語れば良いのだろう。それは流れ落ちる汗の様に容赦無く、私の内側から外へと流れ落ちる。然し、周囲の人々は悪臭の様に、私のエロティックな匂いを忌み嫌い、眉間に皺を寄せて遠ざける。《そう云う事はよそで話して、と云う様に沈黙は強制され、不穏な雰囲気が漂う。君は考える、もしも、それを語るべき場所と云うものが在るとしたら、それは充分な雰囲気を兼ね備えているのだろうか?或いは、雰囲気は誰かによって作り出され、心地良い薫りの様に自明に漂ってくれるものなのだろうか?》そんなに都合の良いやり方が在る筈がない。話そうと云う意志が現われなければ何も出来ないだろう。でも、何から話せば良いのだろう?《昨日、面白いポルノを見付けた、と君が話し始めると、君の友人は喜んでくれない。その為の布石、布石の布石を上手に打たなければならない。そして、その面倒なゲームにそろそろ君は飽き飽きしている》
「セックスの話をしたいのですか?」文乃は尋ねた。宮崎文乃は真糸の友人である。年は同じであるが、境遇は違う。彼女は高校に通っていないのだ。知能が高く、論文を書いて人から御金を貰える程度には自立している。仕組みは判らないが文乃は事実的な飛び級をしたのだ。文乃は小型の猛禽類の様な瞳を持ち、それは猛烈な嵐の様に思考を重ねている様に感じられる。
二人は何時もの様にカフェ宿り木でテーブルを挟んで話をしている。
「話したい、でも、何から話せば良いのか判らない」真糸は云った。
「では、セクシャリティと云う概念で語り始めましょう。セクシャリティは近代に入り急速に発展し展開し、表現の主流に発達しました。セックスが進歩したのではなく欲望を肯定する事でしか社会が成立しなくなり、独立した欲望になったと云えます。如何にもこれは西洋的な表現ですが、この国は西洋的文化圏に仮装する過程を持っています。衣類や風習としてあったそれは性急に独立したファクターとなり、人々を包みながら明らかな禁忌に巻き付きました。それは自由な持続で在りながら逸脱を続けるものでした。エロティズムを言語化したのは無論文学でしたが、近現代は発禁を多く発行した時代です。タブー視が出来上がり、その限界に迫る様に人々は風習を変更して行きました。例えば、女性の下着は日本の様な孤立した文化圏には存在しませんでした。ブラもパンティも無かったのです。また、下着に付いて語ったり、考えたりする場所もありませんでした。この国は急速な西洋化の中で、強烈な禁忌感を持って倫理的規範に従属しました」
「そう云えば、下着って何時からあるのだろう?」
「主に戦後の風習です。洋服が一般化して、それに伴って下着が導入されました。西洋では、初期はブルマの様なものがそれでした」
「生理中とか大変そう」
「生理は禁忌に触れたので多くは語られていません。多くはT字帯の様なもので補い、生理中の活動は制限されていました。男性の下着がフンドシの延長だとしたら、女性の下着はスカートとセットで考えた方が早いでしょう。つまり、見えるかも知れない物、として変更されたものなのです。それは隠す事で強調された生殖器です。同時にフェチズムを生み出します」
「考えると、下着泥棒って凄く昔からある印象」
「その印象通りでしょう。真糸さんは下着泥棒の心理が判りますか?」
「判らないよ。私が男の子の下着を盗みたい、と考えられないのだから」
「でしょうね。つまり、性的な公平性から客観的に考える事は出来ません。恐らく、女性がフェチズムの対象とするのだとしたら、やはり女性用下着でしょう。性は一方と一方がシンメトリーな関係で成されている訳ではありません。同時に、セクシャリティは同性愛を含んでいました。そして、性的なツールを通して、つまり、衣類に代表されるパッケージを通して、変身する性も現われ、それは一瞬で衣類を失い、身体的な性転換への願望となりました。それぞれの性は、共感能力を軸に、他者に侵犯するものとして自らと他者を成したと云えるでしょう。ですが、何を〈自ら〉と云い何を〈他者〉と云うのはそれは個別です」
「ああ、文乃の下着なら盗みたいと思うかも」真糸は意地悪そうに微笑して云った。
「今日の下着は赤いレースの彼岸花です」
「それはいいや、持って帰るにはきつ過ぎる」真糸は苦笑して云った。
「大きく男女と区分しても、其処には大きな隔たりがあります。文化的風習と、身体的に備わった直感、それらが複雑に絡み合い、エロティズムは常に限界を模索していました。限界に達する事こそがエロティズムなのですが、その限界に収束する性質を持ちました。男性文化は大勢のトロフィーガールを生みました。多くの人がそれを模倣し真似し、複製しました。ですが、性的マイノリティ―であり、アウトサイダーである女性はそのやり方では充足しませんでした。家父長制度の家庭は酷い有様だったのです。暴力や偏見、自由も尊厳も無い生活が死ぬまで続き、思考停止を強要されました。近代西洋文化圏で最初期の女性の職業はナースだったと云えるでしょう。ナイチンゲールは戦争を応用して、女性が這入り込む余地を作り、それを体系化しました。教育や参政権も近代化の中で進められます。では、今、この日本で男女は社会的に公平でしょうか?」
「全然、酷い有様」
「ジェンダーの問題意識と、セクシャリティの発展は同時期だと云えます。それは必然なのでしょうか?偶然なのでしょうか?」
「判らない。ねえ、何時の間にか話が置き換えられていない?セックスの話は?」
「性的な地位と、セックスの在り方は近しい関係にあります。地位が確立され、主張が出来る様になったのですから。忘れないで欲しいのですが、避妊の技術が進んで、女性はやっと性的な快楽を孤立したものとして思考できる様になったのです」
「コンドームは偉大だ」
「あなたも、それに付いて話したいと云う事は、自らの性に付いて充分に理解していないと感じると云う事ですね」
「そう、判らないの。私は何に対して欲情しているのか、とか。何が気持ち良くて、何が生理的に受け入れられないのか、とか。子供が欲しいのか、いらないのかとか。ついさっきまで自分の欲求に付いて悩んでいた筈なのに、一瞬で社会問題にすり替わったり、大胆に話せば話す程空中分解して行く感覚があったり、答えが無いのは判っているのに酷く私を打ちのめすの」
「つまり、話せる雰囲気を作る以前に、それは自分と切り離したり他人に押し付けたり出来ない種類のものだと判ると思います。ですから、ファッションに付いて延々と意味も無く御喋りを続ける方が楽なのです」
「いやよ、私は衣類より、その下に興味があるの」
「なら、どうして今裸になって御喋りをしないのですか?」
「それとこれとは御話が違います」真糸は大げさに掌を見せて云った。
ああ、文乃がボーイフレンドだったらどれ程楽だったろう、真糸は思った。でも、彼女で満足出来る性を私は持たない、だから、他の人とこういう風に話さなければ。でも、どうすれば話せるのだろう?
私には性があり、性的欲望があり、それは流れ出す汗と同じ様に溢れ出る。諦めで語るより快楽として語られる方が増しだ。でも、セックスに付いて語る事に付いてどう納得出来るだろう?きっと、私は納得する心算がないのだ。それは何時如何なる時も不快感を孕み得る火種で地雷なのだ。性は余りにも重くなり過ぎた。子供を育てる責任は女に重くなり過ぎた、育児を重くすれば女を縛れるとでも思ったのか、負担なら産まなくなるのは当然だと云うのに。それでも、愛しさから子供を持ちたいと云う時が来るのだろうか。だとしたら私も余程の馬鹿なのだろう、真糸は思った。別に、私は女を代表出来ないし、誰も女の代表にならない。各々が勝手に思う事だ。だが、社会と云う集合は早々に人口を諦めない。それは事有る毎に脅迫するだろう。嘗ては、子供の為には何でも出来る親と云うものが居たのかも知れない、然し、今は、親が自らの為に子供を犠牲に出来る時代だ。《或いは、君達の云う親と云う幻想は長年の悪夢だったのかも知れない》つまり親に期待するのは酷なのだろう、親と云う枠組みは役割を失いつつある。私の母は比較的努めた方だった。でも、女であるが故に、娘を少女に留めようとした。私は何度も忘れようとした。忘れ過ぎて別の現実を生きている心地すらした。いや、あれも幻なのだろうか?
雨が降っていた、とても激しい雨だ。私は熱心に自慰行為をしていた。まだ小学生の私を、私が鏡越しに見ている。何時それが始まり、何時それが達するのか彼女には上手く思い付かない。然し、彼女はとても熱心だ。読書の途中だったのだろうか、部屋の机には本が投げ出されている。部屋の電気は消されていて、時々稲光が彼女の肌を白くする。快楽は恐ろしかった。行く先が無くて、急激で、内側から自分が変更されているのが判る。其処には殆ど余白が無くて、無目的なものにしか見えない。余りの恥じらいに自分を思い描けない、けれどそれ自体は進んで行き何かに至る。波は打ち寄せ何かを飲み込もうとしていて、それは痺れながら攣り上がり体を震わせる。
《君はやりおえると、気分を変えようと外出した。雨の中の散歩だ。安いビニール傘の上を雨粒が這い、何度目かのデジャビュを覚える》
人気の無い住宅街を散歩するのは幻想的な行いだ。歩くと様々なものが去来する。然し、その時の私の感情は蘇らない。
私は誰かとセックスするだろう、と私は感じる。《つまり彼女も感じる》それは少し先の話で、避妊をしなければならないだろう。でも誰とどの様にするのだろう?想像も出来ない。私は相手を思い浮かべずに快楽だけを持っていた。影の様なものが自分の身体を舐め回し、裸を明確にするイメージはあるが、それは愛撫であってそれ以上ではない。それは至らないし、達しないし満ち足りない。
《丸で御伽噺の様に思える。然し、思い出している君は思い出に様々なものを持ち込んでいる。『裸のマハ』を見た後だっただろうかポール・デルヴォーを見た後だっただろうか、それ以前だっただろうか?寧ろ、それは曖昧だ。『ウルビーノのヴィーナス』では無いのは確かだ》
不思議だ、町は酷く荒廃していて、人の気配が薄い。みんな何処に行ったのだろう。或いは戦争でも起こって、避難しているのかもかも知れない。《幼い君は度々戦争の夢を見た》彼女が避難出来ない災難だ。
彼女は真直ぐお気に入りの公園に行った。その花壇に、彼女が好きな花が咲いているのだ。然し、向かった花壇には先客が居た。素っ裸の男が跪き両手で傘を支えていて、何やら震えている。彼女にとって初めての男の裸だ。《君はそれが猥褻な光景である事を理解している。男のペニスは空間を押し退ける様にそそり立ち、赤くなり今にも破裂しそうだ》でも、奇妙だ、男は性器に触れていない。丸で、雨と幻に興奮する様にそれは独自の震えをしていた。
彼女はその男に近付いた。《きっといけない事なんだ》男は少女が近付く事を拒絶する。然し、彼女は退かない。先程の快楽を思い出す、彼女は視線を作り出し自らを見ていた。自分を裸にしてそれを抱く影を思い描いていた。彼女が男に触れる程近付くと、男は威勢よく射精した。彼女の眼鏡に何かが飛び、衣類に精液が付着した。
すると、背後で母の声が聞こえた。振り返ると憤怒の形相の母がいる。母は電話で警察を呼び、裸の男に侮蔑の言葉を浴びせ、急いで私を隠した。《君は高揚感と恥ずかしさで言葉が出ない》そして、母は二人になると平手で彼女を殴った。《どうして何も聞かないのだろう?どうして母はタイミングよくあの場に居たのだろう?君は様々な思いを封じ込めて行く》
真糸は汗を拭い自転車から降りた。拭っているタオルが既に湿っていて不快であるが、汗を拭うものが他にないから致し方が無い。彼女は兎に角涼みたいと思い、店に這入った。白熱の日射から建物へ這入ると、視界が暗くなる。暗黒では無い、寧ろ眩しい闇だ、先程までの明るさが視界に残っていて、目を閉じても眩しさがある。だが、涼しい風と植物の匂いが彼女を室内に慣れさせて、真夏の暑さは遠のいて行った。店内には様々な花のアレンジが点在している。彼女はカフェ宿り木の二階へ上がり、窓辺の席へと向かった。成山波留磨は席に座って本を読んでいる。真糸はその席に駆け込んでテーブルに置かれている水を仰いだ。
色白で眼鏡を掛けた美しい少女が汗まみれで席に着き、僕の飲みかけのグラスを飲み干した、波留磨は思った。砂漠を渡る人々が水筒を共有する事を気にしない様子を思わせる。極限状態で水分を求める人間に、他人が口を付けた、と云う間合いや余地は無い。逆に云えば、このデリカシーとしてある、接触嫌悪は豊かさの残骸の様なものだ。彼女は何処か甘い匂いを持ち、汗は海の薫りを思わせる。僕等は夏の暑さに付いて一言二言話す。《毎年夏が狂って来るね》《ああ、異常気象だ》元が白い所為だろう、真糸の肌はやや赤くなっている、彼女は日の光に強く無いのだ。僕等は夏休みに入っても毎日の様に連絡を取り合い、どうでも良い事を話す。彼女は僕に挑発的な事を云う。今は、自慰行為に付いての小説を思い付いた、と話している。《頼むから大声では話さないでくれ》それが成立するのか僕には判らないが、彼女がやっている事を連想すると僕は興奮するし面白い。彼女は何時も喜々としてセックスに付いて話す、でも、彼女は僕と寝てくれない。機会もタイミングもあるし、彼女だって僕の事を嫌いでは無い筈だ、《でなければどうしてこんな風に会うのだろう?》、でも上手く行かない。きっとそうやって焦らされている間に僕の方で心が折れ、何時か別れるのかも知れない。いや、そのまま友達でいる事も可能だ。だが、僕の気持ちを無かった事にして友人を演じる事は可能だろうか。《無論、可能だからあなたは思うのだ》
母が、日葵さんが退院した。何の理由も無く入院して何の理由も無く退院した様に思える。第一、日葵さんは元から狂っているのだ。どうして彼女を放置して或る日急に入院させる?彼女は僕が幼い頃から女性として接して来た。《つまり、君を男として見ていた》《光の中で粘膜を張る奇妙な官能の柔さ、あなたは死を感じている》それ以外の日常では殆ど会話をしない。話が通用するとも思えない。今年の春のあの日、彼女は裸で椅子に座って自慰行為をしていた。僕はもう彼女は母とは見られない、彼女は元から僕を子供とは見ていない。彼女はそれから沢山の男と関係を持ったと云う、でも、だから何だと云うのか。彼女は元から呆然として何を考えているのか判らない人だった。《だとしたら誰がどんな狂気に酔いしれているのだろう?》ならば、その前に心の壁として恋人が居れば、彼女を断れるのではないか。然し、それを知ってか、真糸は踏み込ませてくれない。《或いは、あなたは間違った救いを求めているのかも知れない》
彼は私を見ている、真糸は思った。私を抱きたいと思って見ている。でも、彼によって映し出された私と云う美しさは彼に抱かれると自壊するだろう。彼の事を想像しながら壊れるのだ。私は何時彼に抱かれるのだろう。《それは君にとって君の終わりだ》そして、美しさを忘れる程の喜びになって再び美しくなる。毎日、メイクを仕上げるのと同じ事だ。崩れ去るものとして自らを他人の瞳に作って砕ける。ああ、一瞬が愛おしい。今在る、キリキリとした緊張を楽譜に残せたら、永遠をスカートに閉じ込める事が出来るのだろうか。
×
「僕は貞操の鏡だ。貞操より先に排泄を秩序立てるが、排泄は性的な器官でもある。其処に禁忌感がある事が大切だ。女は僕を作り、僕を禁じ、僕を陵辱する。そうしなければ得られない快楽がある」少年ガラテアは云った。
彼と彼女は昼食を終え、本を持って海へ向かっていた。絹から作られた髪の毛は光で透けて、長い睫毛は蝶の触覚の様に弾力を持つ。だが、彼は本を読んでいる振りをしているだけで、実際には読んでいない。読書家と云う役割が彼に与えられているだけである。彼には様々な役割がある。女が望むのであればそれはなされる。まず、彼は視線を与えなければならない、女に介在する意志でなければならない。故に、無垢で美しい造形を与えられたのだ。とびっきり残酷に女を見なければならない。時に、彼は禁断の恋愛をしなければならない。彼と云う隔離された存在が同じく隔離された者と恋仲になる事が女の喜びとなる。彼は何度も災難に遭い、時に悲劇的に自殺した。無垢の喪失は他の無数の少年ガラテアを悲しませる。
「僕は何時も極限状態に立たされる。限界に迫らないものは性的な快楽になれないからだ。だけど、極限状態が在って性的な快楽があるのか、性的快楽が極限状態に起きたのか、結局は判らない」
顔を思い出した少女は少年ガラテアの言葉を悲しく聞いていた。同情する訳ではないけれど、その様な過渡期は少女に必要で、それは脆く、砕け散る定めにある。私達は簡単に着替える事が出来るし、自分の顔を、簡単に書き換える事が出来るのだ。時に小動物の様な可愛らしい幻想で我を忘れて、時に自分を駆り立てる炎に身を投げる自らと衝突する。丸で、飯事と自爆しか出来ない白痴ではないか。だが、それすら誰かに期待された配役の部分だ。少女は自分の顔だけ見えない女なのだ。
図書館の方角に入道雲が見え、白と赤の風船が群を成して飛んでいる。晴れた空なんて嫌いだ、と彼女は思った。
「狂える夏の青は病死を含む」少年ガラテアは云った。「虫の鳴き声と天災の予感がある。女達は薄着を着なければならない。水着を着てはしゃぐ声の黄色はヒステリックな音を鼓膜と側頭部を震わせる。丸で、夏の虫の様に命を震わせる女がいる。彼女達は潜在的にシャーマンだ。宿命と幻聴、呼び寄せられる予見を他人の言葉に捜している。啓示を捜すのと同じく占いは不可欠だ。それは無根拠で反復的な差異でなければならない」
見ていると、青空を滑る様に紙飛行機が飛んでいる。それは爆弾の替わりに花火を落とすが、周りが明る過ぎて火花は煙を上げるのみだ。
「他人を定義付ける為に在る事は虚しい事だと知っているが為に、女は僕を作らなければならなかった。そう云う虚像だ。逆に、虚像らしくない幻想は求められない」
でも、きっと悪気はない、彼女は思った。
「時に、僕は悪気そのものとなる。時に、世俗的で俗悪な配役を持つ。悪気として彼女達の前に立ちはだかり、彼女達に懐柔される。僕等は余白で在り、モザイクだ。秘する女神と異なり、顔はあるけれど絶対性がない。僕等は時に動物になる。動物を通して動物の人格となる。云うならば仮想現実の仮の名前の様なものだ。多くは可愛らしい名を持ち、キュートな振る舞いを持つ」
「でも、あなたは結構クールね」彼女は云った。
「君が御伽噺の続きを求めなくなったのはつい最近だろう?君が〈鏡ガエリ〉をしなかったら僕もこうして本を読む振りをさせられなかっただろう。シニカルなのは君の好みだ。思い通りにならない事も僕には大切な事なんだ。僕みたいな少年が肛門を責められて陵辱されると興奮するだろう?それはもう、理性を総動員して焚火に薪を投げ込んで燃やすのだから。僕等は少女と対極であってはならない。生殖能力を持たず、何処までも貪欲で、純粋でなければならない。でも、ずる賢くなくてはならない。少女の先手を打つ事が望まれる。少年性と云うのは難しいものなんだ」
「私が先に望んで、あなたがそう行動し発言している」少女は云った。
「そして、君はそう望んだ事を忘れる。実に器用だ。彼女達は望んで忘れる。望んで誘導して忘れる。だからややこしくなるのだけれど、同時に忘却の目印に僕が居る」
《風が通り過ぎ、海の薫りを運んでくる。イノセントで生々しく、健やかで無数の地雷を含んでいる》《君達は幾度も破壊されて来た、破壊され得る何者かが居なければ幻想が保たれないからだ》
「僕は少年漫画には登場しない。僕と云う少年像は男の子には余りも無個性だ。僕の様な少女も登場しない。男の子達は飯事をしないのさ。僕を通さずに自らの願望に気付き、それを自明の事として疑わない。彼等の持つ性欲は、何者かを通して運ばれる事がない。だから、時に無性に虚しく、罪悪感を含む」
《でも、エロティズムを知る前の自分と知った後の自分との間に断絶を見付けないのだろうか?》
エロティズムは断続だ、彼女は思った。それは影の様に記憶がある限り近くにある。《あの視線、あの仕草、あの感触》ただ、忘れたければ無い事に出来る。これに断絶などあり得るだろうか?
「男の子は断絶とは云わないよ」少年ガラテアは云った。「彼等は自らをずっと変わらない一個体だと信じて疑わないだけだ。女は第二の性を得ると云うのに変身を忘れるなんて奇妙だろう?だから僕が此処で繰り返し変身する。でも、彼等の替わりに変身する事は出来ない」
二人は海に出た。強風が吹いていて波は高く、水平線の上には動きの速い群雲がある。彼女と少年ガラテアは海岸のテトラポットの上に座った。並んで座ると彼女より少年は可也小さい事に気付く。
「何時も視界より小さめに作られる所為だ。きっと俯瞰的なデザインはされないのだろう」少年ガラテアは云った。
「ガラテア、と云う名があるとしたら。誰か女の人の創造主がいるのかな?」彼女は尋ねた。
「ピグマリオンは居るよ。でも、僕は育たないし、成長しない。育成を楽しむ過程はあっても決して結果とはならない。僕が立派な紳士になって彼女達の満足となる事は無い。男性は未成熟な異性を求める事が出来る。それを育て上げ、自分の思い通りに仕上げ、ものにして支配する。でも、彼女達は僕を支配したい訳ではない。だから、忘れるしかない。ほら見てごらん」少年ガラテアは指さした。
彼が示した浜辺には無数の人形が打ち上げられ、魂を失って捨てられていた。胴体は白樺で作られ、手足は象牙だ。だが、歳月はそれを藻屑に変えている。それ等は座礁した深海の生物を思わせる。
「あれは死ではない。僕等は同じ魂を幾つもの器に入れ替える。だから、無駄な胴体は打ち捨てられるしかない」
「ねえ、あなたはあなたとして誰かに愛されたいと思う?」
「その禁忌を跨いだ人は少ない。どうして少ないのか、それは簡単な事だよ。飽きるんだ。でも、可能だろう。だけど、その様に愛されている僕は既に僕では無い。その僕を愛している人も僕の創造主では無い。創造を忘れ合った、唯の異性だ」
透明の蜃気楼の様な姿のカモメが水平線を行き来している。それは漢字の鳴き声を吐き出したが、彼女には何と読むのか判らない。岬へ視線を投げると海岸線に風力発電用の風車が並んでいた。
「彼女達が思う程センシティブな幼年期を送らない男が殆どだ。だから必死で感傷的な物語が紡がれている。原体験を埋めるように」
「原体験が無いから作られるの?」
「誰もがタルコフスキーの映画の様な幻想的で強烈な記憶を持ちたいと望んでいるかも知れない。でも、男達が見る風景は便宜的で芸術性に欠けている。感性も共感能力も卓越しているのは一部に過ぎない。だから幻想は生産され、過去へ逆輸入されて行く。映像作品となりアウラとなり記憶になる。それは世代を引き継ぎ、或る種の懐かしさ、ノスタルジアを成す」
「男にもあなたの様な過去に介入する幻想があるのね」彼女は云った。
「でも、それは風景だ。消耗された風景はこの海に落ちて来る。僕達はこの水平線がその度に広げられるのを見ている。丸で、何かが裂ける様な音をたて、海は巨大化している。何時か限界が来るよ」
「大丈夫、幻想はリサイクルされている」
「でも、誰も反省しない。さて、燃やしに行かなきゃ。僕の残骸を」
「私はあなたがあなたを処分している光景を見たくない」
「知っているよ」少年ガラテアは笑顔で云った。
細部は愛撫する肌触り、背後が失われた様に祭典は打ち上がる。
沈黙は苦しみではなかったのか?
いや、二人は様々な音が聞こえている。
互いが互いを見て、見られ、発見して、体は裸に変身する。
脱ぎ捨てた顔に、余白が生まれる。
普遍無き響き、鼓膜の中に予感だけがあり、
収束するフィクションに塗り潰された、
すべてが最初の驚きで、それは未知の糸で絞殺される。
「これが薄まる事があるだろうか?と君は思うだろう、
或いは、驚きは失われ、
或いは、最初から驚きも発見も無く、
同意も合意も無い、濁流になるかも知れない」少年ガラテアは云った。
×
気付くと光は少し傾いた。日に焼けたアスファルトの異臭が此処まで漂って来そうだ。真糸は運ばれたコーヒーを口にして思った、ガラテアは私が作ったのだろうか?
奇妙な錯乱が彼女を襲った。あの雨の中の男は私にとっての《存在しない神を存在させない為の神殺し》だったのだろうか?だとしたら殺されたのは彼か私か?ああ、女性はセックスの中で生贄として殺される役目だったのだ、神の身代わりとして。
彼女は何度目かの驚きと共に成山波留磨を見た。《君を生贄にしたい男は期待している。君は期待に応えられる。だが、何かが気に入らない君は、再びやらせないだろう》
ep3-2へ続く
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