トレード回想録
人生初のトレードを経験した2024年
野球面での学びは別の機会を設けるとして、今回はそのトレードについて振り返りたいと思います。
まず、我々がトレードを意識したのは、6月の初旬あたりでした。
レベルの高さから「魔境」と呼ばれるア・リーグ東地区において、ブルージェイズは最下位に沈むなど、とても厳しい状況にいました。
そんな中、チーム内では
「俺はトレードで出されるだろうな」
「あのチームは〇〇を欲しいだろうな」
などと言った会話が、選手同士でも増えていました。
(移籍が常にあるMLBにおいて、こういった会話はトレード期限を問わず日常茶飯事です。)
メディアの質問も、「トレードされると思いますか?」という質問を聞かれることが増え
「いよいよXデーが近づいている」という感覚になっていました。
そして7月中旬にGMから「ほぼ間違いなくトレードが起きるだろう」
という言葉があり、すぐに家族に連絡をして、急遽、荷物をまとめる作業に入りました。
というのも、カナダとアメリカには当然ながら国境があり、荷物を送るのも税関検査が厳しく、かつ届くまで時間を要するため、トレード先が決まったらすぐに荷物を発送する必要がありました。
数日のうちに、トロントの自宅にある荷物を一斉にまとめ、不要なものは気風や処分する作業をしなければなりませんでした(シーズンオフのトロントは寒く、引っ越し作業には厳しい環境であるため、この期間で全てを綺麗にする必要がありました)
そんな時に、自分は長期遠征で家を離れたため、妻が一人で家事や育児に加え、全ての引っ越し作業、転居に伴う手続き、学校の先生などお世話になった方への挨拶回り、引っ越し先ですぐに生活ができるようにセットアップの準備など、ありとあらゆる作業を一人で行っていました。(妻は自分の会社も経営しているため時差もある中で経営者としての仕事もしていました)
よく、お手伝いさんがいるんでしょう?と聞かれますが、妻は自分でやった方が早いから。と言って一人で文句や弱音も吐かず、息子との時間はハッピーに過ごすような人。(この時の恩、一生忘れません!)
引っ越しで運ぶダンボール。その数およそ30個!
アメリカでの荷解きも全て一人で行なっていて、新しいチームのカレンダーを見ながら、この遠征からチームに合流して、奥様会のチャリティに行くと意気込み、フライトの予約など先の予定も組んでいました。(なかなかできることではありません…)
息子も引越しを自覚していましたが、大好きだったカナダのお友達や先生にしっかりとお別れの挨拶をしてくれました。
そして、トレード期限前日。
ボルチモアでの試合が雨の影響で遅れ、雨が止むまでクラブハウスでパソコン作業をしている最中に監督室に呼ばれ、アストロズ移籍を言い渡されました。
「チームはアストロズ。明日の朝イチの飛行機に乗ってヒューストンに向かってくれ。3年間本当にありがとう」
監督、コーチから移籍を告げられ、涙を流してくれるスタッフもいました。
自分も、愛するブルージェイズとの別れに、感謝の気持ちでいっぱいでした。
山あり谷ありのジェットコースターのような3年間。
初年度は苦しみ、中継ぎ降格も経験。
登板日は球場全体からのブーイングが鳴り止まず。球場から徒歩5分にある家の周辺では、熱烈なファンからの野次を毎日浴びていました。
ファンにバレないよう、周囲を警戒しながらベビーカーを押す妻を見て、「辛い思いさせてしまってるな…」と、胸が締め付けられるような気持ちでした。
それでも2、3年目には少しずつチームやファンからの信頼も得て、息子の始球式を球団が企画してくれたり、「ボブルヘッドデー」を作ってくれたりしました。(ボブルヘッドデーの有無が、MLBではチームからの期待値を表す一つの要素だったりします)
球場でチームメイトに別れを告げ、それからはご飯に行き、苦楽を共にしてきたトレーナーや通訳と3年間の思い出を話しながら食事をし、かつアストロズの選手名鑑を見ながら、明日出会うアストロズの選手やコーチの名前を覚えるという作業をしました。
(今だから言えますが、アストロズに移籍と言われた時の感想は「まじか…」でした。というのも、2019年から2021年まで所属したマリナーズは、アストロズと同地区ということもあり何度も対戦しましたが、アストロズにはなかなか勝てず、特に本拠地ミニッツ・メイドパークではことごとく打たれていたため、全くいい思い出がありませんでした。投手には、なぜか捕手が遠くに感じたり、なぜか変化球がよく動く球場などが人それぞれあります。自分にとってミニッツ・メイドは異様に球場全体が暗く感じていたため、内心は「あそこが本拠地になるなんて、大丈夫なのだろうか…」と思っていました。実際には「住めば都」でしたが。。)
そしてアストロズでの二ヶ月間はホテル生活をしながら、学校がない週末を中心に家族が来てくれるのを楽しみにしながら、シーズンを走り抜けました。
この移籍がもたらしてくれた経験はあまりにも大きく、我々家族にとっても一生忘れられない財産となりました。
それは野球選手として見えてきた新たな発見という側面はもちろんですが、それ以上に家族と力を合わせて戦い抜いたことで、より一層家族の絆が深まったように感じます。
次の拠点はどこの街の、どこのチームになるかは全く分かりませんが、「野球選手になりたい!」と毎日練習を欠かさない息子と、どこに行っても笑顔を絶やさず、菊池家の太陽のような存在の妻がいれば、「何が起きても大丈夫!」と今は確信を持っています。