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私を鍛えてくれたもの。16年間続けた競泳生活。私を見出した桒田先生に感謝を込めて。
自由に、その人らしく、自主性を重んじて強制することなく、などなど、昨今の教育、これをゆとり教育というのか? とにかく、教師が生徒に言える言葉が著しく制限されているそうだ。私に言わせればBullshitだ。
日本の教育制度が、問題山積であることは同意する。だが、人間の本質は、易きに流れるもの。自己中心(狭義の利己主義)であるのが自然である。ならば、ある程度、人を鍛える機会をもたらさないと、このBullshitな経済社会の中で、生き残れる確率が低下することは自明の理である。この考え方が古い、昭和だ、自由で自主性を重んじる教育からしか天才は出てこない、などと反論を受けるだろうが、スティーブ・ジョブズ、イーロン・マスク、などは、超体育会系的な性質である。アイデアもすごいが、正気の沙汰でない仕事ぶりはよく知られたこと。自分にも厳しいが、部下にも厳しい。ともに、幼少期につらい経験をしたようである。つまり、世界的な天才経営者は、つらい環境を肥やしにして、のし上がったのである。
現在の私を形成してくれているものの筆頭は、6歳から始めた競泳である。小児喘息で親の手を煩わせていたことは既に述べた。肺の弱い子は、肺を強化することで小児喘息が快方に向かうことを聞いた母が、私に競泳をすすめたのである。ちょうどタイミング良く、小学校2年時に、明郷小学校の林先生が、スイミングクラブを開設されたのだ。私は、喘息になったら生きていること自体に強烈な苦痛が伴うことを知っていたのと、人一倍素直な性格だった(らしい)ので、親が差し向けたことに断る余地は無かった。
問題は、ここからだ。私には、大した野望もなく、ただ、母の奨めに従ったカタチでしか無かったが、競泳とは、そもそも、呼吸が制限された中で、身ひとつで行う競技である。競泳のトレーニングとは、その苦痛な状態を繰り返し作り出す、つまり、身体に負荷をかけ続けることで、目標である一定距離の到達記録を縮めていく作業である。要は、苦しくなければトレーニングではない。ビート板やブイを使い、下体だけ、上体だけ、のトレーニングもある。だが、それはどちらかというと筋トレである。メインのメニューは、ターゲットとする距離をいかにコンスタントに良いタイムで泳ぐか、それを繰り返す(インターバルを挟んで行う)ことである。私は、喘息持ちであることをいいことに、軽い負荷の競泳をエンジョイしようと思っていたが、明郷スイミングクラブに指導サポートで来られていた、桒田(くわだ)充弘先生に見つかってしまったのである。
桒田先生は、府中スイミングクラブ(任意団体)を設立された方で、当時、府中温泉という旅館を経営されていた。府中温泉は、有名な首無し地藏を、さらに山側に行ったところにあった。本館から温泉(大浴場)までアーチ(スカイウォーク)がかかったユニークな建物だった。ここは、府中東小学校、第二中学校の学区であり、三中学区の私からみたら、都会の、見上げるような存在。桒田先生の息子3兄弟(直哉くん、森くん、ひでのりくん)も競泳選手であり、雲の上の存在とはこのことだった。また桒田先生は、後に私が在籍することになる同志社大学水泳部にいらっしゃった方でもあった。このことは、私が同大学に進学することになる、大きな理由となる。
その桒田先生が、明郷スイミングクラブでトレーニング中の、多くの生徒の中から、私をみつけ、私の手をとり、プールから引き揚げた。そして「おみゃあ、こんなところで練習しょうちゃあいけなぁ」と言われ、中学校のプールで上級生のトレーニングに参加させられた。明郷スイミングクラブは明郷小学校と第三中学校のプールを使っていた。ひとつのプールであるが、真ん中に柵があり、水深が浅い方(小学校用)と、深い方(中学校用)、に区分されている。その中学校側に加わることを強要させられたのである。
「なんで僕だけ」「嫌だ」「水深が深くて怖いよ」「しんどいのは嫌だ」、いろいろ思ったことはある。だが、断る勇気も無かった。さらに、屋外プールは夏場だけなので、冬場は、尾道高校の屋内プールに週1回、練習に行くというのだ。尾道高校といえば、当時、競泳の強豪校。高橋繫浩さんという平泳ぎの超有名選手がいた。まず、そんな遠いところに、しんどいことをしに行くことが自体が苦痛であり、また、尾道高校の屋内プールは、飛び込み選手のトレーニング場も兼ねているのか、途中から急に水深が深いエリアがあるのが、泳ぎながら見える。水深が深いことは記録には関係ないが、怖がりの私には、怖くて仕方なかった。
幸か不幸か、翌年に、B&G府中海洋センター(温水プール)が府中市内(土生)にできたことで、尾道高校には行かなくてよくなったのだが、B&Gは市内にあるので、年中通える。ここから、週3回の競泳生活が始まったのである。高校からは週6回か、大学時代もそれくらい。つまり、22歳まで、週1日~週3日のプールに居ない日以外はずっと、競泳のトレーニングをしていたこととなる。アスリートならば、当たり前かも知れないが、今、振り返ると、あのとき、桒田先生が私を見つけてくださらなければ、喘息が良くなるまでの適度な競泳で、数年で止めていたと言い切れる。理由は、私は競泳が好きだ、と思ったことはほ無いからだ。
近年ならば、「嫌ならやめていいんだよ」という教育をするだろう。一緒に明郷スイミングクラブに入った同級生たちが、次々と止めていった。行先は小学校の野球チーム「明郷カープ」だ。広島県人でカープと聞いて、心がときめかない少年がいるだろうか? 私の愛読書は「ドカベン」「球道くん」。野球に憧れるのは無理もない。小学校4年の頃だろうか、あるとき、母に競泳を止めて、明郷カープに入りたい、と相談した。母は、じゃあ、お父さんに聞いてみよう、と言ってくれて、その場を設定してくれた。父は府中高校から同志社大学に至るまで、ずっと野球選手。ただ、京都大学を受験するため、高校生の後半は受験勉強に専心せざるを得なかった。京都大学は不合格だったが、すべり止めで受験していた同志社大学に進学し、野球部に入ったが、セレクション(スポーツ推薦)で入学した人材を優先するため、レギュラーを獲れなかったらしい。体格もあり、いかにも活躍しそうな父がなぜレギュラーになれなかったのか? それは父から、というより、祖母から聞いた。父はそのことについては、私に多くを語らなかったが、父には、その時の悔しさがあり、私にスポーツ選手として功を為すことを希望していることは肌で感じていた。自分が苦汁をなめて、くすぶり続ける野球に対し、息子がやることを否定することも無いだろう、と軽く考えていた。
少し緊張して父と対面した。父からの言葉は意外なものだった。「競泳を止めてはならん。男がいったん、やる、と決めたことを投げ出してはならん」という言葉だった。私は、呆気にとられた。どもり(吃音症、小児期発症流暢障害:なめらかに話すことができない状態)の私は、言い返すことができなかった。一人になったとき「なんで」と悔しさがこみ上げてきた。思い通りにならない人生を恨んだ。この悔しさはしばらく続いた。かつての競泳仲間が放課後、校庭で明郷カープのユニフォームを着て、トレーニングをしている姿をみて羨ましかった。だが、競泳のトレーニングを休むとも言い出せず、変わらない日常は続いた。
そんな落胆とは裏腹に、小学生高学年になると、私の身長が伸びるに従い、記録はどんどん伸びていった。気がつくと、小学生の部では広島県下でトップクラス。福山周辺の大会では、ほぼ、優勝していたと思う。すべては覚えていないが、全国中学生大会(全中)、ジュニアオリンピック大会(JO)など、活躍するステージを全国に移していた。そして、京都洛南高校へ進学し、京都府高校生記録(100m自由形)樹立、国体出場。インターハイでも入賞するようになっていた。
結局、京都つながりで、同志社大学に進学し、ここでも、関西選手権(関西のすべての選手に出場権がある)でも優勝した。インターカレッジ、国体に何度も出場した。大学最後のインターカレッジ(神宮外苑プール)を終え、競泳は引退したが、本当に充実した競泳生活だった。オリンピックには行けなかった(そのレベルに到達できなかった)ことが悔やまれるが、それは、社会人生活の中で(ビジネスにステージを変えて)成し遂げる。そんな想いを忘れたことは無い。いつも、全力プレー。それ以外の選択はない。ストイックにならざるを得ない体質は、競泳が与えてくれたもので、私の財産だ。
喘息の苦労はいつの間にか消えていた。今でも、1日:17時間働いても、風邪すらひかない、強靭な身体と精神力。競泳が私にもたらしてくれたものに感謝以外ない。本心でそう思っている。
振り返れば、これも、父が仕向けた通りだ。つくづく、父は、アル中、自己中、口が悪く、トラブルメーカーであったが、私を、50歳を過ぎてもIPOに向かわせるほどの、ハングリーなビジネス戦闘マシーンに仕立て上げたことは、自身の至らなさを補ってあまり得る、とんでもない社会貢献である。私が今後生み出す、廃校利活用陸上養殖モデルなど、社会課題を解決するであろう功績は、元をたどると、父が私に生を与え、育てた事実を踏まえると、父が起点であることは疑いようがない。
後日談になるが、私が大学生の頃だろうか、父から「おみゃあはのぅ、球技はむかんねぇ。おみゃあとキャッチボールしてわかったねぇ。おみゃあの肩じゃあ野球じゃぁ大成できん。それとのぉ、野球はチームプレーじゃけぇ、チームが勝たんにゃぁ、道が切り開かれんけぇのぉ。じゃけぇ、桒田先生と話してのぉ、先生、この子はオリンピックいけますかのぅ、と聞いたら、先生が「その素質はあります」と言うちゃったけえのぉ。じゃけぇ、競泳をやらせたんじゃぁ」と告知を受けた。なんと、桒田先生が、複数の生徒の中から私を見出したこと、競泳を止め、明郷カープに入ることを拒んだこと、私が、その後の競泳人生で成し遂げられたこと、すべて、つながった。
桒田先生が、選手に教育してくださったことで、最も身に染みて役に立っていることがある。それは「頑張るチカラは苦しいときにこそ生まれる」という教えである。当時、第三区間バッタ、というトレーニングがあった。
専門種目(自由形、平泳ぎ、背泳ぎなど)で泳ぐ中、第三区間(200m泳ぐなら100m-150m区間)をバタフライで泳ぐ、というユニークなトレーニングである。一番苦しいときに、泳ぎ慣れない種目で泳ぐことで、より一層の負荷をかける、という趣旨のものである。
私は、苦しくなってきたら、ワクワクする性質がある。なぜなら、苦しいときにこそ頑張れば、必ず成長できるし、耐えていれば、必ず、ゴールがやってくることを競泳から学んだからだ。
「好きなこと、やりたいことではなく、自分のためになることを受け入れ、そこからの学びを勝ち取れ」ということが、私の結論である。
自分は何者であるか、自分は何者になりたがっているのか、の判断が幼少期にできる人は少ない。ならば、与えられたものに、精一杯、取組んでみること。そこに甘えは要らない。周りもその学びの機会を妨げないこと。
こうして、人は成長する。気弱で、怖がりで、どもり、しんどいことが嫌な私が、今の自分になれたよいうに、誰にでも、そのチャンスはある。
最後に、桒田先生にお礼を申し上げたい。まだご存命かどうかはわからないが、あなたの育てた教え子が、あなたの施しをチカラに変えて、社会の役に立つために頑張っていることをお伝えしたい。
ご恩を忘れたことはありません。感謝しております。