名もなき旅を生きる
ミスチルの名もなき詩
1995年、僕が小学生の時に初めて買ったCD。ミスチルの名もなき詩というCDでした。当時はミスチルが絶頂期を迎えていて、小学生高学年だった僕も彼らの音楽に夢中になっていました。
歌詞も意味もその当時はよくわからなかったのですが、そのメロディーや歌詞のかっこよさに魅了されて、擦り切れるほど聞きました。
あるがままの心で生きられぬ弱さ
学校の規則や親のルール。いろんなしがらみの中で生活していた僕にとって、このサビの部分の歌詞は心に染みていました。あるがままの心で生きたいという僕の願望はいつになったら叶うのだろうか。他人が決めた自分らしさという檻の中から解き放たれて、本当の自分で生きられる日がきっと大人になるとくるのだろうと思っていました。
自由にあるがままの心で生きられなかった自分の弱さゆえに、うまく行かなかったことは全て他人のせい。学校、親、社会、世界、フランス大統領。何度か爆発して、もがいて、うまいくっているのに情けなく感じていました。20代前半で気づいたことは、僕にとって、うまく生きることではなくて、あるがままの心で生きることの方が大切ということでした。
あるがままの心で生きようと願う
20代前半から少しづつ自分の心の声に従って生きる生き方ができてきて、全ての失敗や人生で起きることの責任を負う決意ができてきました。自分はこういう人間だから、こうしたいんだという思いが強くなればなるほど、うまく行かないこともたくさんありました。就職、進学、その後の進路。20代の半ばには何かも上手く行かなくなっていきました。
僕の失敗を予見するように、あるがままの心で生きる難しさを桜井さんは教えてくれていました。10代はその歌詞の深さに気づけませんでした。あるがままの心で生きるとは、なんと奥の深い世界なんでしょう。
そして、愛。
大学生の時、同居していた父親が風呂場で、よく歌っていました。大企業のサラリーマンとして仕事がとてもよくできた(らしい)父の魂のルフランだったのかもしれません。
うまく扱いこなせない「あるがままの心」を「自分らしさという檻の中」でうまく飼い慣らす技術なのかもしれません。うまいくいくほど、自分らしくありたいと思い。自分らしくある時ほど、成功したいと願う。「あるがままの心」などは忘れてしまって、社会の歯車になりきることができないのはどうしてでしょうか。
名もなき詩と終わりなき旅
僕らがどういう心でどう生きたかは、その瞬間過去になります。その行為にはきっと、光の面と影の面があって、それを自分で決めつけることはやめましょう。生きるということは、自分の命=時間を使って、情熱をもってやった行為の連続なんだということです。
理由があって、何かを好きになるのではなくて、好きになることを説明するのに理由が必要だということです。僕らの「あるがままの心」がきっとまた前に進むための原動力を与えてくれます。それは、「自分らしさの檻の中」から解き放たれた「もっと素晴らしいはずの自分」を探す旅。
息をする胸に吸い込んでしまう不安や恐れ、迷い。頭に去来する奇妙な噂や誤解。それをプラスに力に変える力が生きる力。それが、「自分らしさの檻の中」から解き放たれた「もっと大きな自分」を探す旅に僕らを突き動かしてくれます。僕らのささやかな人生は誰に気づかれることのない、名もなき旅だとしても。
旅を決意して旅に慣れる
歩みを止めることなく。淡々と。虎視眈々と。
この小さくてささやかな名もなき旅はまだ、生きてる限り続く。
めんどくさいことたくさん書いてきましたけど、
結局これに尽きるかもしれないですね。
今日も笑顔で楽しく過ごしましょう。
この記事が参加している募集
よろしければサポートお願いします!サポートいただければ、執筆活動に使わせていただきます。よろしくお願いします。