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東京の真ん中、江戸城(皇居)を極めませんか その1(江戸城本丸から三の丸)

プロフィール後のnote投稿記事の1回目です。まずはコンセプトの「東京レトロ街歩き」で、実際に歩いたレポートをnoteへ投稿します。

今回は...レトロもレトロ、東京の真ん中の真ん中の江戸城から始めます。誰でも知っているし定番中の定番で情報も溢れているんですが、外せないポイントでもあり真っ先の載せます。「江戸城を極める」ということで、皆さんも案外見落としているところもあると思うので、一読頂けたら嬉しいです。同時に、江戸城のみならず内堀の周囲にある近代の遺構も沢山あるので、一緒に取り上げていきます。

因みに「江戸城を極める」は以下のようになっています。外堀については後日レポートします。
その1  (江戸城本丸から三の丸) 本記事です。
その2 (内堀 和田倉門から外桜田門へ)
その3 (内堀 平川門から清水門へ)
その4 (内堀 北の丸から田安門へ)
その5 (内堀 千鳥ケ淵から桜田門へ)


マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。

江戸城本丸があった東御苑は大手門から入るのが一般的だと思いますが、平川門と北桔橋門からも出入りができます。今回は大手門から入場します。入場は無料ですが、持ち物検査はありますし、定休や行事で閉鎖される場合もあります。

大手門

旧江戸城の正門で、参勤交代で江戸に滞在していた大名たちが登城する際に使用しました。左右の石垣は伊達政宗が築造しました。1945年(昭和20年)に空襲によって焼失。1963年(昭和38年)に木造復元により再建されました。
枡形内に渡櫓の屋根を飾っていた鯱が展示されています。刻印に「明暦三丁酉」(丁酉=ひのととり)とあり、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)で焼失した後、1659(万治2)年に大手門が再建されたときのものと推定できます。昭和20年の空襲で門は焼け落ちましたが、鯱だけが現存しているのです。

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江戸城大手門
江戸城大手門
江戸城大手門
大手門の鯱

大手門を入り三の丸尚蔵館を過ぎると、番所と大きな石垣群が見えてきます。三の丸尚蔵館は御所で用いた調度品、華族、賓客などから献納された美術品などを展示していて、現在新館が一部完成していて、2025年には全館が完成予定とのこと。三の丸尚蔵館の前を過ぎると同心番所と大手三の門跡の石垣が現れます。ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされて検問を受けました。

大手三の門跡

同心番所

大手三の門手前にある同心番所はもっとも大手門入口側にある番所です。同心番所には大手三の門を警護する与力・同心が詰めていて、ここで、まず登城する大名の供の者を監視する役目を果たしていたといいます。

同心番所

百人番所

長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。

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百人番所
全長50mを超える百人番所

この百人番所に向き合う形で中之門の見事な石垣があり、その向こうに更に大番所が見えます。

中之門跡と大番所

中之門の石垣は、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積まれています。また、石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から献上されたと考えられます。中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用され整層・布積みの石垣です。

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大番所は大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸へ入る最後の番所で警備上、最も重要な番所でした。

大手中之門跡
大手中之門跡と大番所

皇居正門石橋旧飾電燈

ここから二の丸庭園や本丸の方へ歩いていきます。途中に目を引くのは皇居正門石橋旧飾電燈です。1888年(明治21年)の皇居造営に際して、皇居正門前の石橋の高欄の親柱上に設置されたものです。1986年にまったく同じデザインの飾電燈に交換されたものの一つです。

皇居正門石橋旧飾電燈

二の丸庭園

二の丸は将軍の世嗣(後継者)が全将軍の正室のための御殿が置かれた場所です。鑑賞や遊興の場として親しまれた池泉回遊式庭園は、1630(寛永7)年ごろに、家光の命で武家で茶人の小堀遠州が作庭しました。昭和43年に復元されたものです。二の丸庭園に諏訪の茶室があります。火災などで焼失後、11代将軍・徳川家斉の時に創建されています。かつては吹上御苑にありましたが、昭和43年、皇居東御苑の整備の際に移築されました。建物は明治45年に再建されたものです。

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二の丸庭園に諏訪の茶室

ここから汐見坂を通り本丸へ向かいます。汐見坂はかなりの勾配を持つ坂で、一気に台地の上まで登ります。現在では想像ができませんが、当時はここからは江戸湾の日比谷入江が目の前に見えたといいます。

桃華楽堂

坂を登ると一際目を引くのは桃華楽堂です。音楽好きの香淳皇后(昭和天皇の皇后)の還暦記念として昭和41年に建設された200名収容の音楽ホールとのこと。「テッセン」の花弁を形どつた屋根と八面体という珍しいフォルムで江戸城本丸跡、天守台の横に建っています。

桃華楽堂

江戸城天守台

寛永の天守は、1638年(寛永15年)、三代将軍家光のときに建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。この寛永の天守は、1657年(明暦3年)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれました。これが現在残る天守台ですが、城下の復興を優先すべきであるとの提言により以後天守閣は再建されることはありませんでした。

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江戸城天守台
江戸城天守台

天守台は台上まで登ることができます。台の上でも眺望が開けるので、更に天守の上では江戸が一望できたということが想像できます。この天守台のすぐ裏側に北桔橋門があり、大手門から北桔橋門の向こう側の北の丸までの大きさ、位置関係が把握できます。

江戸城本丸

江戸城本丸

本丸には政治行政機関の表御殿、将軍のプライベート空間である中奥、女性のみで構成された大奥がありました。本丸は現在は芝生の大きな広場になっていて、当時の本丸の状況を知る手掛かりは何もありません。本丸跡近くの休憩所に寛永期の天守を1/30で再現した江戸城天守が公開されているようですが、見逃しました。本丸を横目に見ながらさらに歩くと、石室や富士見多聞櫓、松の大廊下跡が現れます。

石室

富士見多聞北側の蓮池濠沿いにある石作りの蔵です。江戸城の遺構の中では比較的小さなもので、表の石組には焼けたような痕があります。防火のための大奥の調度品や文書類を収蔵する御宝蔵と考えられているということです。

石室

富士見多聞櫓

多聞とは石垣上に建てられた長屋で、防御を高めたものです。平時には内部に鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて襲いかかる敵兵を狙い撃つことができました。江戸城で現存するのはここだけです。 富士見多聞は、1657年(明暦3)、明暦の大火で焼失しましたが、その後再建された建物が現存しています。

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富士見多聞櫓

松の大廊下跡

江戸城内にあった大廊下のひとつ。浅野長矩がこの廊下で吉良義央に斬りつけた事件があまりにも有名です。本丸自体が広場しかないので、廊下跡の痕跡はありません。

松の大廊下跡

さらに奥へ進むと、富士見櫓があります。

富士見櫓

現在のものは明暦の大火の後の1659年に再建された三重の櫓です。それ以後、この富士見櫓が天守の代わりになりました。 櫓の高さは約16メートルあり、どこからみても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」とも呼ばれています。

富士見櫓

木々の中の崖の上にあるので、天守というイメージとは少し違うという感じで、むしろ桜田巽櫓とか、二重橋奥の伏見櫓の方が見栄えがするという印象です。ここから大手門に戻り和田倉門跡、皇居外苑へ向かいます。その2(和田倉門から外桜田門へ)に続きます。


この記事は、私の「東京レトロ街歩きガイド&マップ」サイトのテーマ別「Th-01江戸城を極める」を基に街歩きをしています。記事の内容以外にも街歩き検証はまだですが、外堀を含めて江戸城のAll in Oneのガイド&マップになっています。こちらもぜひご覧ください。


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