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誰のものでもなく、誰でもない

 時々、自分がよく分からなくなる。それはアイデンティティクライシスとか、「人間というものはなぁ、神様のもんであって所詮、器なのじゃ」みたいな大層なものでもなく、漠然と「いま自分と呼んでるものは結局なんなんだろう」と、そう思うことがある。

 例えばSNSを見る。するとどうだろう、顔も見たこともない、声も聞いたこともない、そんな人と会話ができる。僕はここだようと何処からだって言えるし、誰にでも言える。

 例えば誰かに憧れる。僕はよく人を見て、嗚呼こんな人になりたいなぁと思う。ワンピースの主人公のルフィとか森博嗣の小説に出てくる天才達とか小説に出てくる数奇な人間だとかの架空の人から、現実の村上春樹だとか、ユーチューバーのにゃんたこさんだとか、トム・ヨークだとか、まぁ色々だ。高校生のときにラリー・ペイジになりてぇって思ったこともある。
 でも今の自分をみてもルフィでも村上春樹でも犀川創平でもトム・ヨークでも、勿論ラリー・ペイジでもない。それでも彼らのことを調べたり、考えたりして彼らに成ろうと空想したりはする。空想は行動になる。マザー・テレサの有名なあれだ。

 でもそういう時に自分を見返して思うんだ。「あれ?今の自分って何者だ?」そして怖くなる。自分は自分を介して誰かに支配されている。支配されに行っている。奴隷が奴隷として生きていくように、ぬるま湯に使ったまま出てこれずに死んでいく、そんな感覚に陥る。
 でも一体、でも一体どうすればその呪縛から脱却できるんだろうか。マーク・トウェインの人間については一部のこの感覚を文章化してくれている。ようするに僕達は人工知能と変わらない、人間という名の生物であり、相似的な機械なのだ。

 でも、じゃあ、この悩みは一体?

 僕という存在は一体?

 僕らは誰のものでもないはずだ。自由主義の名のもとで、誰にも捕縛されない自由人。
 でも、僕らは同時に何者でもない。僕の代わりなんていくらでもいるし、僕自身ですら誰かと誰かと誰かと誰かの模造品の合体品だ。

 それでも、今日も生きているし、たぶんきっと明日も生きてる。誰のものでもなく、誰でもない人間は…

※ あけましておめでとうございますー!

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