ただ歩く、流れるは
僕は散歩が好きだ。景色とは有限だ。いつその命を使い尽くすか分からない。だからその一瞬を逃したくない、のかもしれない。
散歩している時はそんなことを考えていない。そういうことを考えているのはソファーに寝そべりながら、何も手につかない時だ。散歩している時は、ただ僕個人の赴く思想をするだけだ。唯物的で必要な思想はいつだって立っている間は生み出されない。わけでもないか
僕は散歩する時、音楽を聴いている時と聞いていないときがある。音楽を聴いている散歩と聞いていないときの散歩は、肉か魚かくらいの違いがある。いやこの例えは不適当だ、フィッシュオアビーフと聞かれても、僕は魚が嫌いだし…そもそもそういう時はビーフオアチキンだ。まぁただの喩えだからそれくらいの違いだって分かってもらえればいい。強いて言うなら、ビートルズかQUEENか…いややめておこう、これはあまりよくない。芸術は比較すべきではないというのが持論だ。
まぁそれはともかく、今日は音楽を聴かないタイプの散歩をした。家の近くのお寺と神社をはしごするという日本的宗教観をひけらかすことにもなった。まぁ僕の父親は神主をしているし、宗教に関する本を大量に読んでいるので、お寺に行ったというのはどうかと思うが、大蓮の咲く池があるので見に行くしかないだろう…
田んぼ道、と言っても畦道ではなく、舗装された立派なアスファルトの道を歩いていると、同じく散歩している人とすれ違う。軽く会釈したり、無視されたりと様々だが、それが世界の多様性というものらしい。
結局のところ、散歩というのはただ歩いているということに変わらない。しかし本質はきっとそこにはない。僕が前進すると共に巻き起こされる小さな旋風、もしくは僕の横を流れる何か、それこそが散歩の本質だ。アイデアが浮かびやすいだとか、そういうのもこういう何かの副産物だろう。
つまり「僕はただ歩く、流れるは風」…というのは些か詩的過ぎるか,,,
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?