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余裕禁物と慣れの果て

常に緊張感マックスというのも考え物だが、常に余裕があるというのは気を付けた方がいい。

というのも、今日の朝のことだ。今日はいつもより遅く起きた。出発の10分前だ。え?遅刻じゃない?と思うかもしれないが、僕の朝には大した用意は必要ない。着替えて(だいたい服は3着くらいのローテーションだし、組み合わせも決まっているので迷いもしない)、歯を磨きながら寝癖を直して
今日は一限だけなので教科書を塩少々の要領で1掴みして鞄に放り投げ、携帯と財布をもって家に出るだけだ。

心には全く焦りはない、むしろすがすがしい朝で余裕綽々だ。

そう思いながら、今日の0時に配信されていた小林私の新曲を聞きながら優雅に駅まで歩いていた。一つの坂を下りきったあと、人とすれ違う。

最近はコロナの影響で、田舎の挨拶は素通りからすれ違う際にマスクを上にあげる。つまり息しづらいから下げていたマスクをちゃんと上にあげるようにするという風に格上げされている。

そいう訳で、いつもはずっとちゃんとマスクを着けているのだが、今日はなんかすうすうするなと思いながらマスクを上げようとすると、ない。マスク付けてない…

すぐに翻るとそのまま家まで走った。失念していた。まさかマスクを忘れるとは。

コロナが流行り始めて一年半。もはや習慣になっていたと思ったのに、時間はなくとも心は余裕というのは案外病魔のようなのかもしれない。それとも直近1年の習慣なんぞ、残り18年少々の習慣には勝てないのか…

走りながらも一応鞄に予備が入っているはず、と思い、探ってみるも予備は切らしていた。まぁだいたい予想通りだけど…

走りながら、逆にコロナに慣れ過ぎたからか?一年前は恐怖でしかなかったけど、いまはそんなに恐怖とは思っていないし、これが慣れっていう奴か。そんな風にも思った。

家の扉は勢いよく開け、マスクを掴み、そのまま駅へダッシュ。朝からマラソン選手みたいだ。

走ったかいもあって何とか電車には間に合った。しかしそのおかげで一日中膝は笑ってるし、足腰ガクブルだった。


慣れというのは怖い。悪いことをしても一回目は罪悪感を感じても二回目以降は感じない。いじめも毎日していれば日常で、麻痺してしまう。慣れというのは麻痺だ。それから大事なことを欠落させる悪魔だ。

余裕というのは怖い。余裕がある大人はかっこいいというがそういう人はだいたいどこかで抜けてるもんだし、致命的な間違いを犯す。一番ダメなやつだ。余裕っていうのは余計なことは考えないということなのだから。余計なものをそぎ落としているとその内大切な物にも手がかかる。例えば生活費を切り詰めているといつか子供のためのお金を切り捨てるようになったり…

まぁどっちも全てが悪いわけじゃない。いい面もある。でもそれに溺れてしまえば溺死するということだ。今日の僕は完全に絶海の孤島で溺れていたみたいなもんだ。でも世の中ってそんなもんで二面性が常だ。

だからこそ戒めに今日ばかりは言わしてもらう。余裕禁物、慣れはダメ!


追記 記事内で今はコロナを恐れていないと書いてありますが、これは全く恐れていないという訳ではなく、1年前よりは恐れていないし、いろいろと正体やワクチンなどの開発により、コロナの感染状況はよくありませんが、情報の把握、終息への目途が立っていることから、心的な物に関しては一年前と比べて圧倒的によく、そうゆう意味で恐れていないと記述しました。念のため追記しておきます。


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