だから、連携
前回の記事で、半分泣き言を書いた。本人にとっての最善な環境と家族の方針との板挟みを感じていること。支援者としての自分が至らないこと、他人の生活に介入することの難しさとか限界とか。
ケアマネの目から見て、このご家族も精一杯のことをしている。一般的な理解力とは違うけれど、ご自身の想いの中で大事にしたいことの片々を伝えてくれてはいる。ただ、日常的な生活の基本的な活動や保持するべき状態についての認識が甘いだけ。自分でトイレに行けない本人には排泄の介助が必要、おむつ交換をしなければならない、ってことの理解はあっても、頻度に無頓着。本人が嫌がるからの理由でしないときもある。
着替えや入浴、食事の状況も省くけれど客観的には残念と言わざるを得ない
介護サービスをどのように利用して、利用者が医療とどういう風に関わっていけば改善するのかってことはケアマネとして見立てることはできる。
一番望ましいのは施設への入所。整った環境でプロの介護職のケアを受けることができる。少なくとも尿で膨れ上がったオムツをつけて尿臭の染みついた衣服を着て、食べこぼしだらけのベッドのズレた位置で身体を折り曲げて寝ている、なんて状況は回避できる。
家族もまだ就労してるんだから、もう少しサービス活用して負担を軽くした方が良い。
在宅でも、デイサービスや訪問入浴を利用したり訪問介護をもう少し増やしたり、ショートステイも定期的に利用すれば随分と改善できるのにって思う。だけど介護サービスは利用者が必要性を感じなければ利用には結びつかない。
手強いケースだけれど、それで自分が心折れるかといったらそんなこともない。支援はチームで行うものだし、自分ができないことは人の手を借りれば良いから。サービスは極少ないけれど利用してないわけじゃない。福祉用具と訪問介護とショートステイ、事業者と頻繁に情報交換をして節目・節目では一緒に訪問をして話をしている。そうすることで、事業所も不本意でもしょうがない、このサービスで行こうって合意する。当然、困難ケース的な取扱で包括にも報告している。とてもじゃないけれど、自分1人では抱えきれない。
包括に入ってもらって、事業所と情報共有して、いわゆる連携だけれど、誰かが何かを言ったところで状況は変わらない。ただ、連携して支援しているって事実とどんな関わりをしているって記録を残すことが、自分たちのアリバイになる。皆で思いつくかぎりのことをしてます、支援者として望ましい結果にはなっていないけれど、必要な取組はしています。ってところが落しどころになる。
ご本人の危機的な状況をご家族がもう少し理解してくれたらな~って支援者としての願いはあるけれど、この家族は無能ではない。
ご家族として納得したことはやっている。本人を好き、大事にしたい気持ちは人並み以上に持っている。頑張って受診にも連れていくし、本人の暴言も聞き流している。自分だったら声を荒げてしまうかもしれないときにも、静かに穏やかにやり過ごす。人からは鈍感だと誤解されやすいけれど、感受性は持っている。
本人にとっても、この娘との生活が心地よいのかもしれない。「今度はお母さんが動けなくなって困った」って相談されたのが去年の今頃。決して充分とは言えない環境の中で、ご本人は逞しく生き抜いている。こんなに急激に状態低下して1年後、ご自宅で過ごしていることは正直想像つかなかった。
人の暮らしって本当に様々。自分の思い込みに偏らない。自分や支援者としての価値観を押しつけないこと。覚悟して忍耐強く利用者に関わること。事業者の力を借りて連携すること。自分は今、こんなことを実践の中で学んでいるのだと思う。