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岡本太郎の真髄を知るなら名言だけじゃなく背景も知らなきゃ駄目なんだ

天才・岡本太郎の名言はどこもかしこも最高に素晴らしく、キャッチーで脳をがっちり掴みに来る。

『自分の中に毒を持て!』
『今日の芸術は、うまくあってはならない。 きれいであってはならない。 ここちよくあってはならない』
『いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。』

by 岡本太郎

名言集に刻まれた輝かしいことばたち。わたしたちはその名言を読んで、「すごい! こんなふうになりたい!」とついつい思ってしまいがちだ。
でも、そうやってしんみりして本を閉じ余韻に浸っているときでさえ、岡本太郎がどういう生き方をしてどうしてそういうことばを言ったかまで考えないし、なんなら、ほんとはことばの、自分に都合のいい側面だけ見てしまっているんじゃないか? そう思って自省したおはなし。
※雑語りです。

森の掟の解釈

『森の掟』、という絵がある。
大胆な構図……と岡本太郎において十把一絡げな誉め言葉になってしまうが、特に真ん中にドカンと置かれたオレンジ色のキャラクターがイイ。
愛らしい二次元的な目なのに、不気味なジッパー、ギザギザとした口。
その大きな口には人が咥えられていて牙が刺さって赤い血が出ているのが、二次元的な造形とのギャップが強くグロテスクでゾッとする。
森の掟という題からして弱肉強食を表しているのだろう。
――というのが、先日東京で開催されていた『岡本太郎展』にて、事前知識なく拝見した私の感想だった。
(現在『岡本太郎展』は愛知県美術館にて開催中 ~3月14日まで)

良い絵だな~と思い、横の解説文を見ると、この絵は岡本太郎が自分の絵画を「めちゃくちゃで無価値なものだ」(要約)と画廊のみなさんから言われたことに大層腹を立て、「だったらもっとめちゃくちゃなものにしてやろう!」と奮起して描いたものらしい。うーん反骨精神!

言われてみれば、背景にある風俗的なオブジェ群からして、因習や古いものを現代美術チックな怪獣が荒らしているさまにも見える。
もちろん、弱いものは淘汰される無慈悲さというメッセージもあったろうし、しかしもっと深いメッセージも込められていたろうし、私の見方などは浅いのだろう。

どちらにせよ、気づいたことは、さっきの初見での感想は「私にとって最も都合のいい解釈」だったということだ。
オレンジ色のキャラクターばかりに着眼し、お気に入りのオレンジ色の怪獣の暴れっぷりにばかり気をとられていた。

これを読んで「いやいや、自分なりの感想を持つことも大事だよ」と優しく思った読者の方もいらっしゃるであろう。
実のところ、私も今までそう思っていたからこそ、芸術作品に触れるときはあまり作者の知識は仕入れないようにしていた。
自分なりの解釈が大切、そういった情報は「自分らしさ」を霞ませると考えていたのである。

『憂愁』という絵

考えが変わったのは、『憂愁』という絵を拝見したときだった。
ビックリした。
私が又聞きした岡本太郎なる芸術家は、とてもエキセントリックで、大胆不敵で、常に鮮やかで、強烈な生きる力を持っている人というイメージだった。
しかしこの『憂愁』という絵には、褪せた肌色の頭に白い旗がもの寂し気にはためく、物悲しさを煮詰めたような、やるせない感情が横たわっていたのである。解説文には、この作品は岡本太郎が兵役後、戦後に描いたものであるとあった。

ああ、そうか。このひとも戦場にいたのか。
このひとも戦争を、その目で見て、その耳で聞いてきた人だったのか。

そう思ったとき、岡本太郎作品の見方が変わった。
なぜこんなにも生きる力にあふれる作品を描こうとしたのか。なぜ大阪万博に建てたのが『太陽の塔』だったのか。
素人の薄っぺらな深読みでしかないのだけれど、そこには人が面するどうしようもない壁と、それを芸術を以て壊したいと思った頑なな意志があったんじゃないだろうか。
あの森の掟にも、生き物たちが無慈悲な掟に淘汰されど生き抜いていく、そういう強さが現れていた。

岡本太郎は学生時代から現代芸術において光る才能の持ち主ではあったが、それでも今、こうして残されている作品群にはそういった願い、願望、極めて前向きな現状否定が込められているんじゃないかとつくづく思う。

背景を見ない残酷さ

少し脱線してしまったが、とにもかくにも、こうしたことがあってからは岡本太郎とその名言に対するイメージが変わった。
いや、イメージが変わったというより「これほどの経験があった人だからこそ、なんだ」という理解に変わった。

いい感じのことばなら、口は悪いが、修練すれば誰だって言えるのだ。
それこそ広告のキャッチコピーに負けて商品に手を出すように、ことばというものはとてつもない力を秘めている。
岡本太郎の言葉が胸に響くのは(あくまでうわべだけの話をすれば)キャッチーな言葉を生み出す才能もあったともいえる。
当然、ことばというものはどう足掻いても人の心を反映するので、岡本太郎が発したことばにはキャッチーさ以上のものがあったからこそなのだが――
我々はサイコメトリーではない。だから、文字を読んだとき「そこにある文字」以上の情報は汲み取れない。

ことばにどんな動機や感情があったかなんて知ったこっちゃないから、感動したとき、自分勝手に自分の持っているパーツだけで「解釈」してしまう、ときには全く違う都合のいいメッセージに書き換えてしまう。
「岡本太郎のメッセージは心できちんと受け取れているはずだ」と心と魂を過信して、人間同士ちゃんと思いが通じないなんてしょっちゅうなのに、ラベリングしたことにも気づかずに、記憶の奥底にしまいこんでしまう。
私はそうやって、わかった気になっていたんじゃないか?
岡本太郎に一度も近づこうともしないくせに。

私にはいままで「岡本太郎という素晴らしい芸術家・・・・・・・・が言ったんだからこれは素晴らしい言葉なのである」という無条件の妄信があった。
どんな生き方していた「ひと」で、ことばを発するまでにどんな経緯があっったかなんて、そんな大切なことにちっとも関心を持たずにいた。
これを残酷と言わずにしてなんというのだろう。人がわざわざ手塩を掛けてメッセージを残したというのに、当の本人には目もやらなかった。
だからそういう残酷さを個性と勘違いするのはやめにしよう、脱却しよう。

ことばは、ひとと直接繋がっておらず、ときに曲解される。そういう性質を持つ以上仕方ないとも言えるが、個人的にはそういう不誠実さは持ちたくない。
ことばの持つ意味を常に考えていたい、たとえ本当の意味がどれほど都合が悪くたって目をそらしたくはない、というのはさすがにカッコつけしいかもしれないが、そう思っていられる自分でありたいだけなんだ。

岡本太郎という「ひと」

実家の父に岡本太郎展に行ったと話すと、「ああ、あのよくCMに出てた変なオジサンね」と笑っていた。
私は、岡本太郎展であのCMを見たとき、とてもアクティブな天才芸術家だったんだなとしたり顔でうんうん頷いていた。
けれど、そうなのだ。
岡本太郎は、変なオジサンなのだ。
天才芸術家かもしれないし、雲の上の人(二重の意味で)かもしれないけれど、たしかに彼の生きた瞬間があって、テレビのチャンネルをつけると岡本太郎が「なんだこれは!」と叫び鐘を叩きまくる、そういうCMがお茶の間に流れて「またやってるよあのオジサン」って言われていたときもあったのだ。
生きていた人だった。
ついさっきまで、会いに行ける人だった。

天才芸術家ピカソはテーブルクロスに書いたサイン一つで高級ディナーをせしめた。
天才音楽家アマデウスことモーツァルトは俺の尻をなめろなんてたわけた曲を書いた。
天才数学者アインシュタインはベロを出しているイメージがあるが、実は写真を撮られるのは嫌いで、好感の持てるカメラマンにだけ見せたあの顔が代表的な写真になってしまったらしい。

天才とつけるとどうしても縁遠いひとに思える。
さらに時代というものがあると、遥か遠いそれこそ偉人という人間とは違うものに思えてしまう。
けれど私にも、ピカソからサインをもらって感激したり、モーツァルトの曲名で笑いをこらえたり、アインシュタインの珍しい表情にビックリしたり、そういう可能性はあったのだ。
私と彼らが、同じ時代を生きる隣人たりえた可能性が。

彼らを特別な存在だとみなせば、名言を受け取った自分も特別なのだと錯覚できる。けれどそれは彼らが遺した言葉、伝えたかったことをかえって希薄にしてしまう。
過剰なラベリングをして、美化をして、そうやって人間であることをたびたび忘れてしまうけれど、彼らがチャーミングでもあったことを忘れてはならない。
同じ人間だ。まちがいなく。
そしてもう過去にいて、二度と会えないひとなのだ。

だから私は、岡本太郎のことを、戦争を経験して、生きる力をもったひとで、変なオジサンだったと認識したい。
そうして初めて、岡本太郎のことばの真髄が少しはわかる気がするのだ。
なにを壊したかったのか、なにを肯定したかったのか……等身大の心に近づくことができれば私も一皮剥ける気がする。

まだまだ青いから、手から砂がこぼれるように、せっかく理解した情熱やらなんやらを簡単にぼとぼとと落としてしまうのだろうけど。
でもまあ、少しは自省できたのなら、昔よりは手のひらに残るものはたくさんあるだろう。

だれが言葉を放ったか

SNSを利用していると、ついつい耳障りの良いことばに流されてしまう。
綺麗で論理的なことばを並べる人に好感をもってしまう。
「ひとの考えはすぐに変わるから、過去といまの連続性には目を向けず、いま放ったことばの正しさで判断してほしい」
どこかで聞いた言葉だ。

過去の私は「その通りだ。誰が何を言ったかより、その言説が正しいかどうかで判断すべきだ」と思っていた。
でもいまの私はまったく逆だ。
過去といまの連続性にこそ「重さ」が出るのであって、ことばだけで正しさを証明しようとするのはダメなんだ。
それはことばの持つ力を振り回しているに近しい。
むしろ正しさなど、常に疑われているぐらいでちょうどいい。

偉い人の名前が書いてある名言集はどうにも魅力的に見える。心を打つことばに励まされたいというときにはうってつけだし、力のあることばをゴクゴク飲むのも楽しい。
けれど、その偉い人がどんな思いで書いたのかは知るべきだ。未来の自分のために。

もしかしたら、その偉い人はひどい人で、「なんであんな人のことばを鵜呑みにしちゃったんだろう」と自己嫌悪に浸ることもあるかもしれない。
けれど、背景を知ったとき、その重さを知ったとき、名言はさらなる新しい一面をもって私たちの前に現れるはずだ。

色々長々と書いてしまったけれど、とりあえず肩ひじ張らずに、略歴でもいいから調べよう。
ことばを食べるだけでなく、過去を知って名言を繋げたとき――わたしとあなたのいまにも「岡本太郎」がつながるはずだ。

……と、さんざん間違い続けたわたしが、偉そうに忠告してみたり。

※雑書きエッセイなので、トリビア・豆知識の考証しっかりやってません。うっかり先輩風ふかして後輩にひけらかして「間違ってますよ」とマジレスされないようご留意ください。

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