コロナ禍、家に転がり込んできた彼女に引いた話
急にリモートワークがはじまって、
それと同時に家に彼女が転がり込んできたから正直引いた。
だってこわいし、もう会えなくなるかと思ったし、
と繰り返しながら僕のベッドのうえに甘やかな匂いまるごと座ってる。こんな事態なのにちゃんと腰までの髪もゆるく《巻いてきた》っていうより無垢な感じで散らしてふわふわさせて、かわいい。かわいいし適切にエロいし言いぶんはわかる。わかる。
わかるんだけど、そういう問題じゃない。
僕の目の前で泣き真似しながら上目遣いでこちらを伺うこの彼女、(ななちゃんだっけ、みなちゃん…?「な」がつく)というのは僕の恋人じゃない。いや多分彼女自身は僕のこと恋人だと思ってるかもしれない。そうかも。それはまあ人により定義付けはぜんぜん自由。だけど、だけど僕からしたら完全にちがうので、つまりちがうの。それで、首位の恋人は別にいるの。それが問題なの。首位恋人のすみれ氏がいまここにきたら殺されちゃうの。これまでずっと各方面に残業だとか出張だとか、こまめに予定連絡調整してきた僕の、わりに丁寧な努力、くずれちゃうの。というか君はこの家にきたことあったっけ?でもここにいるってことはあるんだ。でも、とにかく今は、だから帰って欲しい。帰って欲しい。いや、一発やらせてそれですぐ、すみれ氏が来る前に帰って欲しいんだ。できる?と心で目の前のふわふわちゃんに問いながらとりあえず髪の毛をなでる。これはもう癖みたいなもんだから。癖としての礼儀だから。それなのにふわふわちゃんは「許された合図」と捉えたのか「ありがとう、ごめん」と言ってる。感謝されちゃった。23:00。
すみれ氏は、たまにDJしながら普段は激務の映像制作会社に勤務している。だから基本土日しかこない。明け方帰ってしまうことさえある。用事がないと連絡もない。今日は何もきてないし(Twitterは更新されてた)だからつまりほぼ来ない。だけどなにせ今は非常時。昨日からうちの会社(僕は音楽会社で働いてる)も出勤禁止だし、まあ多分すみれ氏も今週には在宅になると思うし。さすがに不安かも。突然会いたいってなるかも。(twitterみたかんじ今も猫のことしか考えてないけど)とすると、もしや今すぐここに非常な感じに現れてふわふわちゃんと一触即発…?ある?
すみれ氏は人前で手を繋いだりだとかそういうのはぜったいしない。小さい映画館で、流行ってない映画みるのが好きで上映中はたまに僕の手に手を重ねたりするけど、明るみでは、まずない。嫉妬とか束縛とかも表立ってしない。だから僕もつきあったばっかりのときは、そういうの(短絡的な行為的な)もしや平気系の子かなと思ってた。だけど一回、会社のお姉さんと飲みすぎて気づけばホテルでやりまくってしまった金曜夜、その日なぜか僕のリュックの内ポケットにホテルのアメニティ?が混入していたらしくて、(窃盗になるの??)僕はぜんぜんきづいてなくて、なのにすみれ氏はきづいたらしくて、なのになのに一ヶ月もなにごともないように過ごして、あえて一ヶ月後に、両手におさまるサイズくらいの【瓶】を持って僕の家に、現れたのだ。インターホンのあと、めずらしく入ってこないから僕がドアをあけたら瓶を持った彼女が立ってた。なんていうか古来からロマンチック族がたびたび海に流してきたような、長く膨らんだ型の瓶。
その瓶の異常性はぱっとみで分かった。
透ける素材でできてるはずのその中身は、黒ずんだなにかで満タンになってた。その邪悪さに反して朗らかな表情だったあの日のすみれ氏。日に当てたお布団のように果てしない安堵をひろげるみたいに。目があった。鮮やかな夕日を背負っていて逆光だったけど目があった。その日は三茶の中華いこうって行ってたから僕はかわいいチャイナシャツをふざけて着てて、つるつると白いそれに向かってすみれ氏は、目があった瞬間突如【瓶】の中身を、ぶあっと、こちらに投げるように、かけた。
強烈な匂いでのけぞった。よろけて壁に手をついたあと、よおくみると床には、潰れたダンゴムシとか蟻とか蛾とか、あとはどうやったのか、粘土状みたいに浮腫んで硬直したままのヤモリ、とかとかの、身近な虫たちの死骸が、何十と、めいっぱい、大量にひろがってた。身近な地獄…地獄地獄地獄絵図…
「それは、この一ヶ月間の、私の苦しみの犠牲」
ふわふわちゃんのおっぱいを舐めながら僕は、できるだけ短い時間でできるだけ丁寧っぽい風に触れたりつまんだりひっぱったり、反応を観察しつつ適切なタイミングで耳元に囁いたりをする。ふわふわちゃんは全然崩れてないアイメイクの端におどる細やかなラメを、僕の家のカーテンの隙間から差し込む街頭の光に反射させる。きれいでかわいく細い腰をしたふわふわちゃんと、僕はつながる。僕ができるだけ焦ってない感じで、ゆっくりうごきつづけるなか、一瞬、うっ、と、きっとはじめてふわふわちゃんのほんとの声が漏れる。おわったあとすぐふわふわちゃんのあそこを拭いてあげる。網戸からはひらぺったい夜風といっしょに重い静寂が僕らをなぞる。掛け布団でだいじなとこだけ隠して、そのままはだかで眠りそうになってるふわふわちゃんに対し「明日朝早いんだ」と早口で言ってみる。のそり。え、この非常事態宣言のなか?という表情をもろに出してるふわふわちゃんはそれでもふわふわペースで答える。「あーうん、そっか、そうだよね、ごめん」
玄関に置きっぱなしにしてた大きめのバッグと、ふわふわちゃんは出ていく。ばいばいと手を降り、ばたんと閉まる音を合図に僕はふらふらベッドにもどり、へなへなと倒れ込む。窓際のライターを掴み、でも煙草がとおくて、心が冷えてく。目線の先にさっき外したコンドームがみえて、ああ、と、ティッシュでざつに包んだそれを左手でつまんで少し上半身をおこす。ライターの火をカチッとその薄ピンクに向けて、あててみる。じゅおん、と黒く縮む。少し火傷した。一瞬だった。
空気に触れた時点で精子はほとんど死んでたよな。でもこれはカジュアルな殺傷行為なのかな。すみれ氏みたいにぶつけたい苦しみも憤りもないのに。すみれ氏のこと急にうらやましくなる。僕の知らないことに関しても、(仕事とか、友達とか?)すみれ氏はなにかに強く、傷ついたりするのかな。急にちゃんと理解したくなる。さっき閉まったドアのばたんが耳の奥に残ってて、それがさっきなのか、もうずっと前の別の誰かが立てたものなのか、僕のなのか、もしくは前の家のなのか、実家のなのか、わからなくなる。これまで聞いた数々の、ばたん、あえてカウントもしてこなかったそんな無価値な気がする蓄積も、知らぬ間に頭の中に積み重なってるのかな。わからない。僕が把握してる範囲のことだけが、僕?僕はどこからどこまで僕?僕が把握してない範囲の僕に関することも、僕?最近僕の僕たる範囲が急速に縮小してる気がする。年を重ねるってそういうことなの?
汗が染み込んだ柔道部の胴着をねるねるねーるねの魔女が煮込んだみたいな匂いが急に蔓延して、咳き込む。
非常事態なんだから、いつもとあきらかにちがう自分になりたいんですけど。って期待したりしてるのかな、自分。ねえインターホン、ならないかな。非常事態なんだからふらっと、僕が、僕自身が、いますぐそのドアをがちゃりと開けて訪ねてきてくれないかな。玄関で対面する自分と自分を想像する。時間をかけて、聞きたいことがいくつか、もうずっと長い間、ある気がする。
ばたん。