君とさよならするのは決まってる
灰色のボクサーパンツを下ろした瞬間、ずばんッと飛び出たそれの大きさに思わず「わあ」と声をあげてしまった。長さも太さも今まで見たどれともあまりにかけ離れてる。それで唖然としたまま
「カエルくん?」
と口走ってた。
すると君は苦笑しながらこう言ったのだ。
「いやここで村上春樹やめてよ!」と。
下着姿の私は、シーツのうえにひざまずいたまま「小説読むの?」と見上げて聞いた。そそりたつそれが、私たちの間で大人しくしてる。君は「村上春樹はたまに読むけど、そんな詳しいわけじゃないよ」と答えた。
ここのところもう、おちんちんがついていれば誰でもいいと思ってたような日々だったけど、相手が小説を読む人だとかそういうこともあるなんてことを、考えもしてなくて、なんだかラッキーな出会いだな、と思った。おちんちんと同時に大事な友人ができてしまったような。石を拾ったらそれがアルマジロだったような。ん?
もう2週間ほとんど食欲を失っていた私は、そのタイミングで気が抜けたのか久しぶりにお腹が鳴ってしまい、「カエルくん、エッチしたらごはんたべよ?」と聞いた。「カエルくんって呼ぶのやめて!」と君は私の頭から夏布団をかける。「え、もうしないの?」と布団を避けて私が聞くと、「いや、うん、しようか」と言って表情を整える。「なに?集中してるの?」と聞くと「いま切り替えてるんだから!」と君はまた苦笑する。
「あんまりしたことないの?」と私が聞くと「はじめてなんだよ!」と顔を赤らめてた。(!!!)「え、ええ?はじめてなら、もっとちゃんとした雰囲気で、したほうがいいよ」と私が言うと、「うるさい」と言って静かにくちびるが、より添った。ゆきどけ…?あまりにも繊細で芸術的な口づけだった。目を閉じたとたん目眩がするみたいで、雪としての私が熱湯の君にとけてく。そのまま私たちはなだれ込む。
君の部屋を出るとお母さんらしき人が帰宅したところだった。「わあ、いらっしゃい〜、わあ、かわいいこ〜」とニコニコ笑うお母さんは低めの背に似合う膝下丈のリネンワンピース。愛嬌と品が絶妙で、友達になりたいタイプ。そんなハッピーママに「ああ、飯食ってくる。晩ご飯いらない」とかいきなりそっけなくする君がさっきとキャラ違いすぎて私は良い意味でどよめく。赤ちゃん鳥のように「はじめましてッ」と甲高く挨拶してしまう私。高台にある真っ白く四角い、洗練されたおうち。二台とまってる大きな外車と小さな外車。
君はひろいガレージから赤い自転車を出す。
「おとうさん何してるの?仕事」
「おやじは、…歯医者の、歯の、型を、つくる仕事」
「へええ、お母さんは?」
「おかんは何も。あ、でもばあちゃんがクラブのママで、たまにおばあちゃんの家の猫たちのことを、おかんは手伝ってる。猫5ひきもいるから」
「えええ?クラブとは?」
「錦の、わりと大きい老舗のクラブなんだよ。俺もたまにボーイのバイトさせられる。ほんとたまにだけど」
「へええ...」
その2年後そのクラブで自分がホステスのバイトするなんて知らない私は興味津々。
「はい、乗って」
制服じゃない私たちは、何者でもないただの若者二人として、ひとつの自転車にぴったりまたがる。私は君の白いTシャツ越し、背中丸ごとにしがみつく。
こんな高台の家にきたことがなかったから、目の前の夕日が大きく口を開けるみたいに街を飲み込もうとしている姿に、おどろく。おそろしい。おそろ美しすぎ。急勾配を、慣れた様子の君はしゅううううっと高速でくだりはじめる。
「カエルくんの、高校は、補習ないの?てか高校どこだっけ?」
びゅううううううんと茜色の風が全身を包む。
大きめの返事がくる。
「ねえ、俺のことなんにも覚える気ないっしょ!西校だよ、補習なんて、ぜんぜん、ないよ!みんな予備校!」
「ああ、!そっか!うちは、進学校だから、補習、毎日だよ!」
びゅおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
「え!毎日?いかないの?」
「うん?ほぼ!いってない!」
「だめじゃん!」
過ぎる暴風のなかを、ははははと音圧強めに笑い声を絡ませながら高速で駆け落ちてく私たち。私を知らない人たちだけが住む街が、きらきらと流れる。まるでアニメーション。映画化用に丁寧に描かれた類のアニメーション。
それは受験の夏だった。だけどそれから君と私はだいたい2日おきにセックスをした。私と彼はべつべつの予備校で夏季講習を受けていたけど、まあどっちも名駅なので、昼下がりには電車に揺られおうちセックス。カエルくんじゃない呼び方が良いとしつこいので私が「ではナマズで」と言い、それが短くなり一旦「ズー」になりかける。それに対し君は「愛をくださいじゃん、やだ!愛、乞いたくない!」とわけのわからないことを言うのでなにそれは?と聞いたら「ズー、知らないの?」と驚かれた。好きな何かなの?と聞くと、好きなわけではないけどなんというか常識的なやつ、とのこと。君は世代ではない音楽を沢山知っていた。うちの高校の男子たちが一生知ることのなさそうな小さな古着屋で70年代の服を買っていた。さらには私の好きな小説をすべて読んだ事があって本の好みが同じだった。そしてなぜか私が思うよりうんと私を愛しているようだった。
はじめてのセックスから1ヶ月経っても、私たちはセックスし続けた。それまで経験だけは重ねていた私を満足させようと、アダルトビデオさながらの言葉遣いを駆使しようとする君のあそこは変わらず巨で、きもちいいの一歩前に「すごい」という感覚がいつまでもあった。夏休みが終わり本格的に受験の空気圧が強まり、予備校は息が詰まるし、高校はもっと圧だった。秋深まる10月。君は受験生にもかかわらず、高校の軽音楽部のライブに、スペシャルゲストとして呼ばれる。スペシャルゲスト?自分で言ってるだけなんじゃないかと思って半信半疑な私に君は「チケット取り置きしてもらったからさ、俺の名前受付で言ってね!」とフルスマイル。
うちの高校には軽音楽部もないし、髪を染めている人もいないし(もしも染めれば、指導教員により強制的に黒染めスプレーをされる。私も2回されて髪が墨液つけっぱなしで放置した筆みたいに固まった)、靴下は白のハイソックス以外履けないし、スカートは膝下10センチをキープしなくてはならない。去年わたしが校庭でピザのデリバリーを受け取ったときは指導教員により分厚くて黒いなんらかの本で頭を叩かれた。購買のパンを買うのが許されて、校庭にピザを取るのが許されない世界。腹が立って理科室のプレパラートを50枚近く割ってやった。その12年後地元に戻ったお盆休みの際、偶然入ったアピタで同級生に「わ!ねえ、もしかして、ねえ!そうだよね!プレパラート!プレパラート割って、窓から全部投げてたよね?!あれさ、怒られてたの、私の席の真後ろの窓だったんだよ!!生物の小堺にめちゃくちゃ怒られてたよね?!なつかしいよ〜…わ〜覚えてる?わたし!」と大声で叫ばれるとも知らず。
生まれてはじめてたどり着いた、「ライブハウス」。想像と違った。建物を見上げた瞬間「まちがえてしまった」と思った。女子大通りの近く。周りにはキャバクラやバーや居酒屋がびっしり並び、道端には煙草を咥えて地べたに座りこむ若者や年齢不詳しかいない。すこし肌寒いのに、みんな顔がてらてらとネオンを吸収してる。街中が生臭い。なにをまちがえてしまったかというと、もうぜんぶだ。ひとりで来るのは違うかな?と思って、5つ年下である中二の妹を連れてきてしまった。ちゃんとお洒落しまくってくるのは違うかな?と思って、あえてラフな感じを狙ってアディダスのジャージパンツにカエルのイラストが入ったロンTで来てしまった。妹の格好は彼女のおおぶりな体型をぴっちり捉えた上下紺色のスウェット。まちがえてしまった。そもそもここは、私がどんな格好で誰と来ようがまちがいだ。いわばぞうきんの裏のようなうちの高校と、もっとも正反対の場所が、ここだ。うちの高校の正反対は、私だと思ってた。ちがった。私は所詮あの進学校の一味だ。ライブハウスは、5階建ての雑居ビルの3階にあった。足を踏み入れると嗅いだことのない甘やかで疎ましい香り。3階にたどりつくための幅広い階段には、そこかしこに若者が座り込み、皆私たちを一瞥して目線で距離を置いた。君のライブが終わったら、君と一緒に三人で帰ろう、そうしよう、って自分に言い聞かせながら、早足で3階にたどり着いてぶあつい扉をあけようとすると、君に声をかけられた。「よう!ぎりぎりじゃん!」星空で染めあげたような銀色きらめくシャツを羽織って裾の広がった皮のパンツとあわせている君は、この建物を凌駕していた。負けてない。負けていなさすぎて徹底的に眩い。私たちに声をかけた君は、その3秒後に騒がしい軍団に肩を叩かれ、そのなかのへそをだした女が私をみて逸らす。君はいろんな軍団にハイタッチされて、ハイタッチして、「うんわかったわかった、もういくって!」と笑ってる。「ごめん、もう出番なんだ、妹さんも、あとでちゃんと挨拶させて!」ごめんねというジェスチャーを顔の前に作って、君は妹にもきゅっと微笑んで分厚い扉の向こうに消える。私は妹の顔を見ず、その扉をに向き直し、力を込めて開ける。体全体が鼓膜になったかと思った。どごん!どごん!どごん!どごん!と全神経が破れそう。私は目の色素が薄いから、目を凝らさないと暗闇が見えないのだとむかし祖母に言われた。合ってる気もするし、そんなことない気もするけど、この日は特段目を凝らさないと全貌がみえなかった。受付の人間のような人は、ぼそぼそと何かをいうが、聞き取れない。私は「とりおきです!」と言って一気に君の名前を告げる。君のフルネームをちゃんと覚えていて良かったと自分に感動する。お金は君が払っておいてくれたらしく、でもドリンク代というものを500円ずつ払う。渡された時にはすでにしわくちゃになってるDRINKと書かれたそれを妹に一枚、渡す。目の前の妹は感情丸ごと洗濯機で洗って色落ちしてしまったように心が読めない。
この1年後に大学の軽音楽部に入ることもその2年後に東京で4度ライブすることもライブハウス関係の男と合計5人付き合うことも6年後ギブソンのギターを盗まれることも知らない私は強い副流煙に戸惑いながら、だけど少しだけ心がはじけるような感覚を孕みながら、奥へ奥へ、進んだ。膜をおしあけるように。処女膜に侵入するのはこんな感じですか?
演奏を終えたバンドが観客からヤジを飛ばされつつ舞台を去る。明るくてうるさいだけの曲がうるさいまま終わったという印象だった。それでも最後は観客全員合唱してたから有名なバンドのコピーかもしれない。演者が去った狭そうな舞台の上では、黒いTシャツの男性二人がマイクの高さを変えたり楽器を設置してる。白く濁る天井。混んでるときの銭湯みたいな熱気と湿気を煮詰めて焦したような空気。椎名林檎のコンサートしか行ったことなかった。ファンでもないバンドのライブをみるのがはじめてで、おそろ新鮮。そう私は、おそろ新鮮。おそろしいしでも新鮮で、だから、こんな、不穏な気持ちなのだそうだたのしもうたのしもうたのしもう。妹はきょろきょろと辺りを見回してる。「もうすぐだろうね」と私はあくまでも自分がさっきからずっと楽しんでいるというような声色をそのまま手渡しするように、妹にそう耳打ちする。すると。きゅわわわわわきゅわしゃくしゃくきゅーーーーーん!宇宙みたいな奇天烈な音色に、ウッドベースが重く這う。君の部屋で聞いたことのあるイギリスのバンドのイントロが流れて、それを合図に観客は舞台に向く。宇宙系イントロが消えると、手ぶらの君が、舞台の真ん中に現れておどけてみんなに手を振る。キャンディーを振りまいたようなカラフルな歓声が溢れる。真っ赤なメガネをかけた瞬くようにかわいい格好の君はセンターマイクの前に立ちどこかに合図を送る。照明が濃い青に変わり、聞いたことのあるギターリフが稲妻のように走る。
さすがに私も知ってた。
岩崎良美の「タッチ」のコピーだった。
私は君の歌声をきいたことがない。だから息をのむ。
心臓の形をした不安と興奮があばれて、その、第一声を聞いた瞬間、感電。感電したのだ。なにかに。あれがなんだったのか、あのときの私はわからなかったし、ごめん今でもわからない。もしわかったら、君に伝えたい。たぶん、嫉妬だ。言わなきゃよかった。そこから芋づる式にでてくる、不安や、自己嫌悪とかとか。
君の歌声は、人間の寄り付かない青々芽吹く山を流るる川のようにどこまでも澄んで、鳥に食べられることを知りながら太陽に向け飛び上がるしかないトビウオのように本能的、そしてなにより君のからだの真ん中にある大きなおちんちんのように強靭なたくましさ、かと思えば射精する瞬間私の頭をやさしく撫でるときのような繊細さ。君のお母さんのよく着ているリネンワンピースのように品の良い、風を透かし光を含みスンとしわひとつない意志の強さ。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶを兼ね備えながらそれでいて不穏で放っておけなかった。みんな知ってる曲だろうに感電して一瞬瀕死。その直後、破れんばかりの歓声とともに踊り出す群衆。それを煽る君。サビで観客にマイクを向けて「タッチ!」と歌わせる。華奢な君は舞台中をタコみたいにくにゃくにゃ踊る。そこからもう海中。私たちは音に溺れる。
この1年後大学に入ったあと君が、なぜアメフト部に入ったか私は知らない。華奢な君が踊るのを見たのはあの夜が最後。
すれちがいや、まわり道を、あと何回過ぎたら、
ふたりは触れ合ったのだろう。ため息の花だけブーケなんて束ねられなかった。まじ星屑ロンリネス。
ライブの直後から私は君に対し壁をつくった。受験勉強に没頭した。なんども着信履歴があったけど、一度も折り返さなかった。その14年後の初夏、君が急に死んでしまうことを知らなかった私は、とにかく過去問を解きまくることに集中した。高校の補習にでまくって、なんとか第4志望の私立大学に入った。君が志望していた大学だった。君はそこに落ちて、私より10以上偏差値の低い大学に進んだ。お互い大学に通い出してから、なんとなくまた連絡を取り合って、何度か深夜、海岸やホテルで会った。君はいつのまにか免許を取っていて、もう赤い自転車には乗らなくなってた。バイトも紹介してもらった。砂浜や、セックスの終わった大きなベッドの上で、私は毎度「いま付き合っている最新彼氏」の話を君にした。君はいつもニコニコ聞いてくれた。君のことで知ってることが、これ以上、あんまりない。
あのライブハウスはもうないらしいよ。
君が教えてくれた曲が、いまも全部好きだよ。
まだいまも、君のより大きいおちんちんはみたことないよ。
え?ほんと。ほんとだよ