マインドフルネス本を読んだ
マインドフルネスの本を眺めていて購入しました。
アンディ・プディコム (著)頭を「からっぽ」にするレッスン 10分間瞑想でマインドフルに生きる
まだ読みかけなんですけどね。
「"瞑想" をだいぶ勘違いしていた。」「世間一般で言われているイメージを鵜呑みにしていた。」
と感じている最中です。
様々イメージと勝手に結びつく
この手の本を読んだことがなかったので、瞑想のイメージが自分の中で様々なイメージと勝手に結びついていて、なにか特殊なもの。スピリチュアルなもの?厳しい修練の末にたどり着く境地。みたいなイメージができていました。
詳しい解説は面倒なので端折りますが、特殊な能力が必要なわけでもなく、超人的な修行をする必要もありません。
大切なことは本書に何度か登場するキーワード「今、ここにある」ということ。
そういえば加島祥造氏の著書でも「ヒア・アンド・ナウ」という表現で、何度も登場した言葉でした。
「瞑想とかなんか怪しそう」とか、「変なセミナーに勧誘されそう」みたいなイメージがあって、興味はあっても近寄り難いイメージを持たれている方がいれば、本書は良い指標になるのではないか?と思います。
ジャーナリング
少し前から始めているジャーナリングについて。
ジャーナリングは "書く瞑想" と言われているみたいですね。ジャーナリングの How to みたいな本を読んだことがないのでわかりませんでしたが、アンディ・プディコム氏の著書で瞑想のことを知ると、「あぁ、なるほど」と納得できる。
心に浮かんでくるのか、頭に思い浮かぶものなのかわかりませんが、人は様々な考え事を勝手にしてしまうもの(たぶんほとんどの人はそうだと思う)
それを "書く" という行為を介してみると、思い浮かんだことだけに没頭するのは難しい。没頭した時点でペンが止まってしまうんじゃないかな?
こういったBlogなんかにも似た特性みたいなものがあって、うっすら瞑想っぽい行為をやっている気もしますが、Blogなどは思い浮かんだことをただただ書き連ねているわけではなく、「この文章変じゃないかな?」「あれ?この字で合ってたっけ?」「ちょっと意味がわかりにくいかな?」などなど、様々に公正のようなことをやりながら書いている時点で "本能的" であるとか、"生の思考" から変質したものになっている。と思うんですよ。
ジャーナリングは浮かんできたものを話し言葉であるとか、書き言葉など関係ナシに書き連ねるので読めたものではありません。まぁ他人に見せることを前提にしていないので構わないんですが。
誤字や脱字。漢字が思い浮かばなければカタカナでも英語でも何でもOK。とにかく "今自分が感じている、浮かんできたモノ" を書き起こす作業。
この "今を書き起こす作業" というのがポイントである気がします。ただ書く人としての役割がありますから、他のことを気にしている暇がない。他のことが思い浮かんだら、それも書き起こさなければならないから。
書くという客観的であり続けなければできない役割があるので、そのまま妄想に没入してしまうようなことも起きにくい。 ー と私は感じています。
"今、ここ" に居続けなければ、浮かんできたモノを書き起こすことができないから。
その辺りが似ている気がする
瞑想もどうやらそんなカンジ?
"今、ここ" に在る自分を見失わないようにしつつ、たまに離れて行ったらロープを緩め、近づいてくればロープをたぐり寄せるような?(この例えみたいな話も本書に出てくる)まぁ、詳しい解説は本書にたくさん書いてあるので読んで下さい。詳しく書いたら著作権に抵触するだろうし面倒なので。
悩みは尽きないもので、自分一人の固定観念で考えてみても堂々巡り。なんてことは誰にでもあるものだと思います。
「この本のおかげてパーフェクトに解決!」
という保証はどこにもありませんが、少なくとも私は瞑想に対する偏見が修正できたことと、物事に対するスタンスがちょっと変化したように感じました。
話がごちゃまぜな上に深いので伝わったかどうかわかりませんが、「そもそも瞑想ってどんなの?」と、気になっていた方は読んでおいて損はない本だと思います。