3.11 あの日、僕らは旅立った
忘れもしない、7年前の今日。
男鹿半島という小さな海岸沿いの村で暮らしていた、無垢で能天気な中学三年生だった私は卒業を迎えようとしていた。
当時の私は客観的に見ても恵まれている人間だったと思う。学年成績1位でバスケ部のキャプテン、そして彼氏は野球部のエース。
高校は秋田でトップの進学校へ入学が決まっていて、先生からも後輩からも、そしてもちろん同級生からも頼られ慕われていた。誰がどう見ても「リア充」以外の何者でもなかったし事実、とても「幸せ」だったと思う。
そんな順風満帆に見えた私の人生という名の船を方向転換させ、沈没寸前まで追い込んだのは、他かでもない東日本大震災という嵐だった。
2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒、東北地方太平洋沖の土地が突如として悲鳴をあげた。
誰がこの瞬間が訪れることを知り得ただろうか。否、誰も知る由もなくその身に降り注いだのだ。外壁が、水が、そして生きとし生けるものたちの血が。
2018年(平成30年)3月9日時点で、震災による死者・行方不明者は1万8,434人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万2,699戸が公式に確認されている。(Wikipedia参照)
1万8,434人。数字というのは何とも冷たい空虚な存在で、私の足らない脳みそでは全く想像がつかない。人間はとても悲しい生き物だから、それだけの死者を目の当たりにするほか、正確にその被害を認知することは不可能なのだと思う。
自分の身近にいる大切な「誰か」を失って、はじめて自然災害の恐ろしさに気づくものなのだ。他人行儀のスナック菓子のように軽い「かわいそう」とか「助けたい」なんて、ただの同情にしか過ぎないのである。
現に私は大切な「誰か」を失った訳では無いから、思い出しても泣き崩れるようなことはない。もしここで人様のために泣き崩れてしまうような共感性の高い人間だったら、今頃不特定多数の人の感情に揺られて疲れ果て生命を削ってしまっていただろう。この文章もきっと書くのをやめていた。
人は「誰か」のために、泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだりできる生き物だ。けれどもその「誰か」はちゃんと名前のある「誰か」であるべきだし、そうあるように神様は大地にりんごを実らせ人に与えた。
また明日になったらこの胸の中を充満させる感情も、ここに綴った拙い文章も忘れてしまうのかもしれない。溢れかえった人々の行動や想いに紛れて、命の重さを見失ってしまうかもしれない。
でも今日だけは、せめて。「3.11」のこの日だけは、せめて。大切に、何度でも、想いだし、書き続けたい。そしてすれ違う無数の人の命の重さを、ひとつひとつ丁寧に測って感じたい。
5年先、10年先、30年先もずっと。死ぬまでずーっと、ずっと自分に問い続けたい。
「明日、自分の周りで震災が起きても後悔しないように生きてますか?」と。
あの日から私の船は安全運転の仕方を失った。
あの日から私の舵は私が握ってると知った。
あの日から私は私でしか無いんだと悟った。
自分の人生は自分でしか描けないし、
自分を愛してあげられるのも自分なんだ。
自分を愛せない人間が、
誰かを愛せるわけがないんだ。
私は今日も、自分の選んだ道を歩く。
自分が選んだ方を向いて進む。
今の自分にできることを、
自分で精一杯やる、ただそれだけ。
あの日、私は旅立った。
あの日、僕らは旅立った。