出来る私は、いりません。
子供の頃からずっと
自分の頭の中にあったのは
【人と同じライン】に立つこと。
だった。
こうしなさい。
ああしなさい。
と、べきべきな母親に厳しく育てられた反動なのか。
それとも単なるそこからの反抗期なのか…。
そんなに毎日キツキツで生きなくても
みんな、同じラインで立って、同じラインで協力して
ゆるゆるやってったら平和じゃないか。
と思ったのが最初のきっかけかもしれない。
そこから30代になるまで
私はずーっと、平等にいたいからと
平等に立てるように走ってきた。
でも走り方を間違えたのか
周りのいう
「当たり前」は私にはハードすぎた。
だけど
みんな出来るのになぜ出来ないの?
っていわれるから、
だんだんそれは「嫌われたくないから頑張る!」になっていった。
冷たい目で見られたくなくて。
とか
「なんで出来ないの?」を言われたくなくて怖くて。
とか
元々根底あった目標からは、どんどんズレていってさ。
気づいたらいっつもゆるまってないのは私だった。
ビクビクしながら、それでも会話することを増やしたくって
明るい輪に入りたくて、必死に追いつこうと走っていたのも私だった。
そして思った。
「いやこれ。なんか違う」って。
最初に違和感を感じたのは
カフェでバイトしていた頃にインフルエンザで休んだ後だ。
復帰してから新しい子が入ったけれど
私がインフル明けでフラフラしまくって間違いまくってたからか。
教えてもちっとも信じてもらえず、避けられまくって
その後、ブラックな仕事に耐えきれずに
別のところに行こうと最後私が辞めるってなったら、その後アホみたいに喜んでた。
わかりやすく嫌われてたなーって。
笑ったけど、同時にめちゃくちゃ腹立ったし、すげー悲しかったな。
カフェで働いてた頃
私は同じように自分のペースでこんなことやって
あんなことやって、ゆるゆるとお店を作りたいなぁって
思っていたけれど。
その夢を一部に話したら
「飲食舐めんなよ?」って色々大変なんだぞ?ってなぜか怒られたり。
(でもあの頃私は別に舐めてないのに勝手にキラキラした夢見て
ふわふわしてるなぁって、頑張ってる人らに思われたんだと思う。)
ある人は
私がカフェを辞めて再会して
親のを引き継いで別のお店をやっていたけれど
結局私が諦めて、映画館で働き出した時にばったり会った時は
「カフェやるんじゃなかったの?え、なんで?」
事情を話しても
別れた後もずっと出来なかった私はバックで笑われてた。
そんなんばっかり続いて。
最終的にいた映画館も「出来て当たり前」が続いた時
思ったよね。
「あ、どの世界も私が出来ないと叶わないのか」って。
そう気づくと
元々根底にあったひねくれの私が
「どうせ…」ってなったなぁ。
出来る人にはわからない、って嘆きと苦しみで
ずっと悩み続けた30代。
同じラインなんか立てなくて良いと
諦めた同じ時期。
私は
多分、というか確実に
「頑張らんと生きられない、出来る世界」に
結構、ってか確実にそんな世界に憧れてたんだと思うの(笑)
嫉妬メラメラしてたんだと、今は思うの。
だけど
その人たちにはその人たちの合ってるやり方があって
悔しんだ時代も、もはや今となってはすんごく懐かしいけど…笑
そう出来ない私にも私のやり方があって
だけど偶然が重なって、たまたま向かないとこに色々ぶっ込んでしまった。
だから私は
ただ入らなくても良い沼に、うっかり入っただけなのだと思う。
だけどね?
入ったことで気づいたのは
「別に何か出来んでもやれることはあるよね」ってシンプルな答えだった。
不安はあっても家事は出来るし。
悩みはあっても、人に相談してちょっとでもゆるんだらいいし。
それで答え出なくても結果自分でもゆるゆるずっと考えるんだしねー。
と
まず下手でも不安でもポンコツでも
そういう自分の「いっちばんの味方」でいることが
私の中ではまず大事だな、って思うのが今。
出来る自分になりたい!
そんな願望も大切かもしれないけれど
それが窮屈になったら
怠けたって
諦めたって
ダラダラしたっていい。
またやる気が出たら動けば良いじゃん?
って今は思う。
だって
無理やり動いてもすぐへばるだけだもん。
そんなん、やだよねー?
ってなったら
休む方が一番良いじゃん?
ってなる。
だから
持病を持ってから今の私が最近掲げているのは
【ただただ、今ある自分をめっちゃ愛してあげること】
これ一択だ。
出来るが当たり前の人たちに囲まれて
それで苦しいなら同じとこに立たず
ひっそりと木の陰にいたっていい。
目立たなくても良い。
日に当たるのが当たり前にならんで良い。
最初から出来るやつなんて誰もいない。
それを
最近はひたすら自分に教えてこーって歩いている。
それでも
根っこのネガティブさは出るけれど、
それを否定しまくる人も多いけど
私は
そんな私を拒絶しない。
マイナス私だって、昔からずっと今の私の思うことを拾う一部だ。
思うが故にネガは守るんだと思う。
想う、って方が字面として近いかもしれない。
こういう一個ずつの積み重ねを続けていけ勝手に
私は「望む私」って昔願ってたあたりのに近づけるんでなーい?
と思って実験してる。
人生は日々実験。
これは小さな頃からずっとあったんだろーなーって今は思ってる。
失敗してもそれすら笑えるように今はなりたいね。
それが、今の
「出来ない私」の生き方だ。