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信長を苦しめた難攻不落の高岡城:「織田信長の伊勢侵攻」を地形・地質的観点で見るpart3【合戦場の地形&地質vol.7-3】
日本の歴史上の「戦い」を地形・地質的観点で見るシリーズ「合戦上の地形&地質」。
序盤の滝川一益の働きによって桑名一帯を足掛かりに信長本軍が伊勢侵攻に参陣。本格的な伊勢侵攻が始まります。
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楠城から高岡城へ
信長はまず伊勢国北部の桑名に入り、そこから南へ進軍します。
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西には他の城もありますが、それらは無視するかのように楠城へ向かっています。
当時の伊勢国北部は北勢四十八家と呼ばれる小豪族が割拠する地域。
決して一枚岩ではないため、攻撃されないと考えたのでしょう。
まずは伊勢国の最大勢力である北畠氏を攻撃し、北勢四十八家を牽制する狙いもあったと思われます。
激しい抵抗も虚しく楠城は落城し、次の標的は西の高岡城。
高岡城周辺の地形・地質
楠城と高岡城の位置関係を確認しましょう。
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高岡城は楠城から西に約2kmの位置にあります。
鈴鹿川を介してつながっており、両城は密に連携した可能性もあります。
ただしこれについては資料によって異なるため、ここでは触れません。
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少し拡大しました。
楠城は2本の河川に守られているとはいえ、城そのものは沖積平野の上に建つ平城です。
一方、高岡城は小高い山の上に建っています。
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この山は標高約50mで周囲の平野部との標高差は約20mもあります。
地質は第四紀更新世チバニアン期(約77万~13万年前)の段丘堆積物で構成される台地です。
段丘堆積物は簡単に言えば河原の堆積物であり、主に礫(河原の石)でできた地層です。時代は比較的新しいため変形しておらず水平に分布します。
そのため、硬い礫層が屋根のように覆っているため侵食されにくく、縁辺部から少しずつ崩れ、侵食が進みます。
高岡城が建つ山地は段丘堆積物が侵食されて入り組んだかたちをしており、縁辺部は急斜面に囲まれ、頂部は平坦面になっています。
出っ張った尾根の先端部から矢や鉄砲で攻撃すれば容易には敵を近づけないですし、段丘なのでおそらく井戸もあったハズ。
なかなかに堅固な城だったと思われます。
この城を守る武将は神戸具盛(かんべとももり)の重臣である山路弾正(やまじだんじょう)。
神戸具盛は六角氏の部下である蒲生定秀の娘を娶っているため、六角氏との繋がりが強く、足利義昭の上洛を目指す信長に対して徹底抗戦の構えです。
加えて山路弾正は勇猛な上に知略にも長けており、信長軍の猛攻から高岡城を守り続けます。
信長軍が高岡城攻略に手こずっているうちに、斎藤龍興の配下である西美濃三人衆が不穏な動きを見せます。
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西美濃三人衆とは稲葉良通、安藤守就、氏家直元のことで、斎藤氏の有力な家臣達です。
彼らはそれぞれ曽根城、北方城、大垣城を本拠としており、彼らが動けば信長軍が背後を突かれるだけではなく、小牧山城や清州城なども危険に晒されます。
そうなれば信長軍は大ピンチになるため、急いで撤退することになります。
実はこれは山路弾正の策略だったらしく、実際に三人衆に手紙を送ったとも、周囲に"噂"を流したとも言われています。
見事に信長軍を追い払った山路弾正。
これにて信長の第一次伊勢侵攻は幕を閉じます。
※信長の第一次伊勢侵攻の時期は、美濃攻略の前と後の両方の説があります。美濃攻略後は三人衆は信長の配下になっており、その後、裏切ったという記述が見つからなかったため、今回は「信長の第1次伊勢侵攻は美濃攻略前」の説を採用しています。
次回へ続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。