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【浅井&朝倉同盟のナゼ?】ゆるく楽しむ月曜地質学:2023年7月17日号
3連休は今日で終わりですね。
しかし先週から各地で大雨が降り、洪水や土砂災害が起こっており、連休どころではなかった人たちも多かったことと思います。
被災された方々にお見舞い申し上げます。
日本は災害が多い国です。
決して他人事ではありませんので、自分が住む地域はどのような災害が起こりうるか?普段からハザードマップを確認することをお勧めします。
浅井&朝倉同盟を地形で考える
先日まで「姉川の戦い」について記事を書いておりましたが、その際につくづく「なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのか?」と不思議に思っていました。
浅井家は新興勢力で、その初期から朝倉家の支援を受けていたという関係もあったようです。
当時までの歴史的背景や政治的背景が絡んでのことでしょうが、ここでは「地形的な意味」について考えてみます。
当時の戦国時代は本当に群雄割拠で、それぞれが限られた兵力で守ったり、攻めたりしていました。
そのため「敵を1つに絞る」のは非常に重要で、その「絞る」理由は様々だったと思われます。
もちろん当時の力関係や歴史的背景もあったでしょうが「地形的に攻めやすいか攻めにくいか?」も大きな理由になっていたのではないでしょうか?
![](https://assets.st-note.com/img/1689577561230-dLJ1Pi3qAB.jpg?width=1200)
古地図を見てみましょう。
北隣のクリーム色が越前国(朝倉氏)で、4本の街道があります。
なお一番東の長い街道は、南東~東へ延びており関ケ原に通じています。
![](https://assets.st-note.com/img/1689580901408-MfBt4onmy3.jpg?width=1200)
地形図を見ると滋賀県は概ね山に囲まれていますが、特に北部は山深く、福井県との県境は全て山地です。
つまり近江国(滋賀県)と越前国(福井県北東部)は、互いに攻めにくい関係にあったと言えます。
一方、当時は織田信長が治めていた美濃国(岐阜県)は大部分は山地で接しているものの、一部、平野~丘陵地になっています。これが関ケ原です。
また近江国の南では、三重県の西の上野盆地(≒伊賀国)との間は丘陵地。
南西の山城国(京都府南部)とは山地はありますが細く、谷が通っています。
つまり互いに攻めにくい関係になっているのは越前国と若狭国だけであり、朝倉氏の勢力範囲でした。
![](https://assets.st-note.com/img/1689582854206-n2hhRwGZta.jpg?width=1200)
古地図で示した街道は、地形図で見ると概ねこのように通っています。
![](https://assets.st-note.com/img/1689582976157-oTzihoQhrJ.png?width=1200)
地形だけで見てみましょう。上の図と見比べてみてください。
街道はいずれも、山の中の細い谷を通っています。
特に一番東の北国街道は溝状の地形が続いているのが分かりやすいと思います。こここそ「金ヶ崎の退き口」で浅井軍が進軍した街道です。
このように見ると、浅井氏と朝倉氏の間では、互いに攻め込むとすれば、溝状の地形を通って進軍することになります。
幅が狭い谷地形は、いくら大軍であっても隊列が限られます。
つまり例えば5列しか通れなければ、一度に戦えるのは前の5人だけ。
守る側が圧倒的に有利ですよね。
このような関係性であれば、互いに敵対して消耗するより、手を組む方が有利だと考えそうだと思いませんか?
ちなみに北国街道は断層が侵食されてできた谷地形であり、アップダウンが少なく峠も比較的ゆるやかなので、進軍はしやすかったと考えられます。
つまり互いに援軍を送り合うには都合の良い街道だったと思われます。
このような地形的関係が、浅井&朝倉同盟の要因の1つだったのかも知れませんね。
今週の予告
今週も金曜の投稿を目指して執筆予定です。
もしかしたらまた、土曜になるかも知れませんが(;^_^A
〇7/21 金曜日:お城と地形・地質
小谷城が堅牢なワケ【お城と地形&地質 其の四】
※タイトル変更の可能性あり
では、今週もよろしくお願いいたします。