"伊勢侵攻"の複雑な背景:「織田信長の伊勢侵攻」を地形・地質的観点で見るpart1【合戦場の地形&地質vol.7-1】
日本の歴史上の「戦い」を地形・地質的観点で見るシリーズ「合戦上の地形&地質」。
織田信長は桶狭間の戦いに勝利した後に、主に近畿地方に勢力を広げて天下人と呼ばれるに至りました。
その経過の中で伊勢国(現在の三重県)へ侵攻しています。
今回から織田信長の伊勢侵攻編のスタートです!
伊勢国の概要
伊勢国は現在の三重県とほぼ同じ範囲ですが、愛知県や岐阜県の一部も含まれていたようです。
三重県の北部は紀伊半島の北にのびており、愛知県と滋賀県に挟まれる位置にあります。
愛知県と三重県が陸続きで接しているのは北部のうちのほんの一部。
そして京都や滋賀あたりをあらためて見てみると、東は伊勢湾、西は大阪湾が北に切り込んでおり、陸地の幅が狭まっていることに気づきます。
そのため中部・東海地方よりも東の地域から、西(京都)へ行くにはルートが限られますよね。
信長の本拠地である尾張からは主に2ルート。
1つは美濃(岐阜県)南西部から関ヶ原を通って北近江(滋賀県北部)へ抜けるルート。
もう1つは伊勢(三重県)の北部を通って南近江(滋賀県南部)へ抜けるルート(東海道)です。
当時の信長は京都へ向かうためのルートを確保したいと考えており、そのためにも伊勢に侵攻する必要があったのです。
信長の伊勢侵攻時の情勢
信長はなぜ京都へ行きたかったのか?
それは後に将軍となる足利義昭を上洛(京都に入ること)させるためです。
※足利義昭は上洛前は名前が違いますが、ややこしいのでこの名前で話を進めます。
義昭は前将軍である義輝の弟であり、義輝が三好一派に暗殺された後に京都から脱出しています。
そのため将軍に就任するためには京都に戻る必要があるのですが、三好一派が邪魔者として立ちはだかっていました。
当時、京都を牛耳っていた三好一派は自分たちの影響下にある足利義栄(よしひで:義昭の従兄弟)を将軍にしたいと考えているため、義昭が丸腰で行っても捕まるだけ。
つまり三好一派を圧倒する軍事力が必要であり、そのために周辺の有力大名に「上洛の協力」を要請していました。
その1人が信長でした。
当初は南近江の六角氏も義昭の味方でしたが、後に翻意します。
そして当時の伊勢国北部は「北勢四十八家」と呼ばれる小豪族が互いに連合を組んで小競り合いを続けていた状況。
その中の有力者(神戸氏、関氏)は六角氏とつながっていたようです。
つまり、いずれ六角氏と争うにしても、上洛ルートの1つである東海道を確保するためにも、神戸氏・関氏らと戦う必要があったのです。
ちなみに、この時期は美濃の斎藤龍興と争っている最中。
信長の領地がまだ尾張一国だったことを考えると、2国を相手にするのは厳しかったと思います。
それでもやらねばならぬほど、信長にとって重要なミッションだったのでしょう。
伊勢への進軍ルート
前置きが長くなってしまいました(;^_^A
当時の情勢は複雑で色々な勢力や人物が絡み合っており、私自身、理解するまで時間がかかってしまいました。
まずは当時の主要な城の位置関係を確認しましょう。
赤が織田、青が斎藤、黄色がその他です。
当時は織田が何度も斎藤へ侵攻しており、常に戦闘状態のような状況で、それと並行して伊勢侵攻が始められます。
まずは先鋒として蟹江城主の滝川一益(たきがわかずます)が桑名方面へ向かいます。
蟹江城、長島城、桑名城の周辺を拡大しました。
なお海岸線は近代になってからの埋め立て地があるため、当時とは異なります。
蟹江城は滝川一益が建てた城ですが、面白い逸話があります。
当時、既に織田家臣となっていた滝川一益が、騙す目的で長島城主の服部友貞(はっとりともさだ)にある提案をします(※織田家臣になったことは隠している)。
「長島城の守りを強化するために蟹江城を建てないか?」
友貞はその提案を聞き入れ、協力関係にあった本願寺(一向一揆)から金を借り、その金を預った滝川一益が築城を開始します。
完成後すぐに一益は信長に報告し、城主に任命され、騙されたことに気づいた友貞が攻めに来ますが、撃退します。
このように、長島城サイドとは因縁があるのと、一向宗の拠点にもなっていたため、ややこしくなるのを避けるためか、滝川一益は長島を迂回して桑名方面へ侵攻したようです。
今回はほぼ歴史の説明になってしまいましたが、次回へ続きます!
お読みいただき、ありがとうございました。