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「上ノ郷城の戦い」と地形・地質【合戦場の地形&地質vol.2-2】
若き日の徳川家康が今川側の鵜殿長照と戦った「上ノ郷城の戦い」。
上ノ郷城は海に面した平野にあり、背後の山地は北西から南東をぐるりと囲んでおり、攻め込むルートは限られています。
前回記事はコチラ👇
上ノ郷城の周辺地域
まずは地形を見てみましょう。
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北東~東、西~南西を山地に囲まれて平野が発達しています。
こうして見ると周囲とは隔絶していて、「ひとつの地域単位」になるのは頷けます。
この平野が鵜殿氏に統一されていれば、北西の谷部(街道が通る)に兵を集中できるため、元康が攻めるのは難しくなります。
しかし以下サイトによれば、桶狭間の戦い後の元康の独立に際し、松平側についた勢力もあったようです。
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上サイトの情報をもとに、当時の勢力図をつくりました。
赤が松平氏の城、青が鵜殿氏の城です。
この平野に入るルート上の城が押さえられ、その出口の両サイドにも城があるので、容易に攻め込むことができそうです。
さらに嫌らしいのは、北東の城です。
このような城の配置状況では背後を突かれる危険があるため、鵜殿氏は迂闊に打って出ることはできず、松平元康軍は直接、上ノ郷城を攻めることができたのでしょう。
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ちなみに上ノ郷城周辺の平野は現在の蒲郡市(がまごおりし)の市街地になっています。
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地質図です。
平野部は約77万年~現在にかけての段丘堆積物や河川堆積物(薄緑、水色)で、背後の山地は中生代ジュラ紀(約2億年~1億4500万年前)のチャートや砂岩・泥岩(茶色や小豆色)です。
チャートは深海底に堆積したプランクトンの殻でできた岩石で、ハンマーで叩くと火花が散るほど硬い岩石です。
そのため背後の山地は急峻で敵が攻めて来づらいため、上ノ郷城側は東西から平野内に侵入する敵に注意を集中できる点が有利ですよね。
上ノ郷城をズームアップ!
一気に「上ノ郷城」に迫ってみましょう。
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松平元康軍が進軍したであろうルートは、北西の幸田町(こうたちょう)から国道23号線で南東へ至るルートです。
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今度は地形だけで見てみましょう。
沿岸部の低い平地の背後に扇状地が広がっています。
もう少し拡大してみましょう。
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さあ、上ノ郷城はどこでしょうか?
画像中央からやや右よりを注目してください。
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これです!
真ん中あたりのポツンとした丘。これが上ノ郷城跡地です。
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お城マーク(凸のような記号)があります。
また川が城の東を囲むようにカーブしていますが、城の守りのために、人工的に流路を変更したのでしょう。
標高は50m程度で、周囲との標高差は約10m。
地質は段丘堆積物なので、おそらく、侵食から残って高まりになっていた丘に、土を盛ってさらに高くしたようです。
ですので断崖絶壁というほどではありません。
とは言え10mの標高差があれば、確かに攻めにくそうですよね。
しかし地形的に、そこまで難攻不落の城には見えませんので、当時の松平軍の実力と比較して、攻めにくい城だったと言うことかと思います。
いかがでしたか?
このように地形に着目することで、当時の勢力単位が地形的な制約を受けていることが良く分かります。
またどのようなルートで進軍したか等、より具体的に当時の状況に思いを巡らすことができて楽しいですよね。
以上、お読みいただき、ありがとうございました。
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